肥後の石橋と種山石工
★緑川流域(日向往還が通る地域)で花開いた肥後の石橋文化。その背景には、国内最高峰の石橋築造技術を有する石工集団「種山石工」の存在があった。今、熊本では、石橋構築・修復技術を次世代につなぐ活動が始まっている。
【「日本の石橋を守る会」と「肥後種山石工技術継承講座」】 「江戸時代の後期、肥後の種山村(現在の熊本県八代市東陽町)には当時、国内最高峰の石橋築造技術を有する石工集団がおりました。「種山石工」と呼ばれ、下益城郡美里町の霊台橋(国指定重要文化財)や上益城郡山都町の通潤橋(国指定重要文化財)など、巨大な石造アーチ橋を架けたことで、全国に名を馳せました。その後も大正期ごろまで熊本県を中心に数々の石橋を架け、現在も残る各地の石橋は、種山石工の技術の確かさとその心意気を示しています。 太平洋戦争が終わり、高度経済成長が始まるころになると、 日本の土木技術は急速な進展を見せるようになります。しかし一方で、種山石工の確かな技術を受け継ぐ石工技能者は減少の一途をたどり、現在ではただ一人になってしまいました。(中略) 日本の石造アーチ橋は9割近くが九州・沖縄に分布しており、現存する石橋は、それらが架設された時代の人々の思いや生活のあり方など、地域の歴史や文化を知るための興味深い手掛かりを提供してくれます。また、周囲の自然に溶け込んだ石橋は、四季折々に私たちの心を癒やしてくれます。石材や石積みなどの特徴を知ると、それぞれに違いがあることが分かり、石橋への興味は尽きません。 日本の石橋を守る会(会長・甲斐利幸)は、石橋の文化的価値を大切に考え、日本の石橋を守っていきたいと願う人々の集まりです。石橋を保全する運動を全国各地の石橋愛好家とともに展開しようと、1980(昭和55)年に発足し、関係機関への陳情、保全対策の推進などの活動を続けています。 2011年からは、種山石工の技術と心意気を絶やしてはならないという思いで、石橋構築・修復技術者の養成を図る事業を立ち上げ、「肥後種山石工技術継承講座」を開催しています。」(日本の石橋を守る会『次世代につなぐ石橋構築・修復技術』から) ここにあるように、熊本では「日本の石橋を守る会」が中心になって、「石橋の文化的価値を大切に考え、日本の石橋を保全していこう」とする運動が展開されている。傷ついた石橋を修理復元して活用すること、新しい石橋を架けるための仕組みをつくることを目指し、地元(上益城郡)の建設会社社長も世話役の一人として熱心に取り組んでいるプロジェクトだ。
「日本の石橋を守る会」ホームページ↓ http://www.ishibashi-mamorukai.jp/
(『次世代につなぐ石橋構築・修復技術』)
【緑川流域/日向往還が通る地域一帯に広がる石橋】 熊本県の県央地域(緑川流域、日向往還が通る地域一帯)には、江戸時代以降、数多くの石橋が架けられ、人やモノ、また、農業用水などを渡し続け、この地に欠くことのできない役割を果たしてきた。 本ブログ『熊本国土学』で既に紹介済の「八瀬目鑑橋」や「通潤橋」だけでなく、「霊台橋」、「雄亀滝橋」、「馬門橋」、「二俣橋」など、この地域には素晴らしい石橋が数多く存在する。肥後の石橋文化が花開いた地域、それが緑川流域(日向往還が通る地域)である。 この地域に数多くの石橋が架けられた理由としては、①地形的な要因による橋の必要性(細かな川や深い谷が多く、橋がなければ隣村に行くことすらままならない)、②阿蘇山のもたらした軽く加工しやすい岩石の存在、③加藤清正公や穴太衆によってもたらされた土木技術と石積みの技法、などが考えられるが、④江戸時代後期、農民の苦労を見かねた地方の先達(惣庄屋や豪商たち)が郷土益を得るため、石橋の架設や水路用石橋づくりに翻弄、自ら財産を投げ打ち、また財源を集め膨大な事業費用を捻出し、その費用で公共施設物の石橋を建設した(公のために尽力した)ことも大きい。
九州の風土と石橋文化(九州農政局HP)↓ http://www.maff.go.jp/kyusyu/seibibu/kokuei/03/yomimono/
美里町石橋マップ(美里町HP)↓ http://www.town.kumamoto-misato.lg.jp/q/list/72.html
【霊台橋】 「江戸時代の石造単一アーチ橋としては日本一の大きさを誇る。緑川本流に架橋。 矢部にいたる難所「船津峡」は、交通の要衝で江戸中期より木橋が架けられたが、いずれも流失したため、砥用手永惣庄屋・篠原善兵衛が石橋架橋を計画し、峙原村(美里町涌井)の伴七(茂見伴右衛門)らが補佐した。種山手永の宇助を棟梁とし総勢72人の石工が各地より集められ、工事は弘化3(1846)年より弘化4(1847)年にかけておこなわれた。明治時代以降も、昭和41(1966)年に上流に鉄橋が架かるまで道路橋として使用された。架橋後160年以上が経過した今日でもその威容は健在で、見る者を圧倒する。」(霊台橋(美里町HP)より)
(霊台橋)
(霊台橋)
霊台橋の右岸には、完成時に惣庄屋の篠原善兵衛によって建立され、現在地に移転された記念碑がある(記念碑の上部には、細川家の家紋である九曜紋も見られる)。また、正面扉の中には、「土木の神様」加藤清正公が祀られている。
(霊台橋記念碑)
【雄亀滝橋】 「文化10(1813)年、砥用手永惣庄屋・三隅丈八は、石野村以下十余箇村の灌漑の為、緑川の支流、柏川より取水する延長11kmの柏川井手の開削に着手。桶嶽の深い谷に工事がおよんだ際、野津の石工・(岩永)三五郎に水路橋架橋を依頼し、文化14(1817)年に完成した。記録には、郡代・不破敬次郎、山支配役・篠原善兵衛の名も見られ、当時の工事の様子がわかる。三隅家文書には、柏川井手開削(雄亀滝橋架橋)事業について「砥用国始以来ノ大業」と記されており、難工事であったことがうかがえる。架橋後190年以上が経過しているが、現在も農地(113ha)へ農業用水を供給する役目を担い続けている。 県内の架橋年代がわかる現役用水橋の中では最古の眼鑑橋である。」(雄亀滝橋(美里町HP)より)
【馬門橋】 「緑川の支流、津留川に架かる石橋。文政11(1828)年、交通の便のため、中山手永惣屋・小山喜十郎のもと、備前(岡山県)の石工・勘五郎と茂吉などにより架橋された。橋近くの道沿いには、橋を保護するため、「車一切通扁可ら須(くるまいっさいとおすべからず)」の石碑が立てられている。惣庄屋の小山喜十郎は、松橋~矢部往還を整備するため、馬門橋を皮切りに、二俣渡(1829年架橋)・二俣福良渡(1830年架橋)等、7基の石橋を架橋した。津留川の風光明媚な小渓谷にあり、石橋周辺の景観は町随一の美しさである。」(馬門橋(美里町HP)より)
(馬門橋:熊本地震の被害の為、通行禁止)
【二俣橋】 「釈迦院川と津留川の合流点が二俣にあるが、この地点において釈迦院川に3基(二俣渡・年祢橋・新年祢橋)、津留川に2基(二俣福良渡・新二俣橋)が架かっており、これを「二俣五橋(ふたまたごきょう)」という。それぞれの架橋年代も江戸時代~現代と幅ひろく、橋(架橋工法)の歴史がわかるフィールド・ミュージアムとなっている。この内、江戸時代に架けられたものは、二俣橋・二俣福良渡で、川の合流点に直角に交わる全国でも珍しい兄弟橋である。二俣渡は文政12(1829)年、二俣福良渡は文政13(1830)年に架橋された。 事業主の中山手永惣庄屋・小山喜十郎は、馬門橋、二俣橋、二俣福良渡の3基の他、三由橋(宇城市)、山崎橋(宇城市)など計7基の石橋を架け、松橋~矢部往還を整備し、手永の発展に尽力した。」(二俣橋(美里町HP)より)
(二俣橋)
熊本地震では、数多くの石橋が被害を受けた。二俣福良渡は、右岸川の壁石が崩落したほか、アーチ部分にひずみが見つかったため、現在、町によって本格的な架け直し工事が行なわれている。
熊本地震で被災した「めがね橋」/二俣福良渡(美里町)(日本の石橋を守る会)↓ http://www.ishibashi-mamorukai.jp/members/kmtjisin.html
(二俣橋と災害復旧工事中の二俣福良渡)
(二俣福良渡:本格的な災害復旧工事が進められている)
(二俣福良渡:被災状況と復旧工法)
【種山石工】 「通潤橋」や「霊台橋」のような高い技術を要する石橋を造ることができた背景には、「種山石工」の存在があった。「種山石工」とは江戸時代、現在の八代市(東陽町)に居住していた国内最高峰の石橋築造技術を有する石工集団のこと。彼らは、江戸時代後期から明治・大正時代にかけて、肥後国だけでなく、全国に出向いて数々の石造りアーチ橋を築いていった。 この「種山石工」の(国土への働きかけの)物語は、本県(熊本県)道徳教育用郷土資料『熊本の心』でも、「橋をかける心」というタイトルで採録されている。
熊本の石橋文化/ふるさと寺子屋(熊本県観光サイト)↓
【道徳教育用郷土資料『熊本の心』から】 「橋をかける心」-中学校- 九州は昔から豊かな石の文化をもつと言われている。ことに、近世になってかけ始められたアーチ型石橋は、「めがね橋」と呼ばれて、今は各地の貴重な文化遺産として、地域の誇りとなっている。 中でも熊本県は石橋の宝庫と言われ、通潤橋、霊台橋など名高い橋から、山深い谷間にかかる小さな橋まで、およそ二百に及ぶめがね橋が残されている。百数十年の風雪に耐えて、今もなお地域と地域、人と人をつないでいる美しいめがね橋を見ていると、 (だれが、どんな思いを込めてこの橋をかけたのだろうか。) と思わずにはいられない。 八代市から国道3号線を北へニ十分ほど車で走ると、氷川町宮原という町に出る。そこを流れている氷川の川沿いに、県道をしばらく進むと、周りを山に固まれて、しようが畑や茶畑の広がる村(現在の八代市東陽町)に入る。 秘境五家荘の入リロに当たるこの山深い里が、橋本勘五郎を頂点とする「肥後の石工」のふるさと、種山である。 勘五郎の生家は、この種山の里を一望のもとに見下ろせる小高い丘の上に建っている。家の前の坂を下ると、氷川へ流れ込む小さな谷川がある。山あいの畑に通う山道が、この谷川を渡るところに、今も小さな三つの石橋が残っている。 このかわいらしいほど小さな橋は、勘五郎の祖父で、種山石工の祖と言われている藤原林七がかけたものである。大小様々の自然石をうまく組み合せた質素な橋であるが、その素朴な味が、石のめがね橋の基だと思われて、興味深い。これらの橋のたもとに立っていると、どんな出水にも壊れない橋をかけて、村人の役に立ちたいという林七の心のぬくもリが伝わってくるような気がする。 春、村人たちは、谷にこだまするうぐいすの声に耳を傾けながら、この橋を渡って野良仕事に出かけ、夏は、ひぐらしの声を背にしてこの橋を通リ、家に帰ったに違いない。 林七が長崎で身に付けてきた知識をもとにして造りあげたアーチ型石橋の技術は、その息子である名工岩永三五郎を通じて、林七の孫である橋本勘五郎へと受け継がれ、その頂点を迎えるのである。 三五郎は、早くから甥の勘五郎が、石工として優れた素質を持っていることを見抜き、彼がまだ丈八と呼ばれていたころから、仕事をする時にはいつも自分のそばに置いて教育した。 「よいか、丈八、知恵を使ってうまく自然を利用するのだ。自然をよく見極め、自然に逆らうな。決して自然をあなどってはならぬ。」 三五郎は口ぐせのようにこう言いきかせた。そして、自分の言葉どおり、三五郎はどんな小さな橋をかける時でも、川をずっとさかのぼって、川やその流域の様子を調べてからでないと仕事にはかからなかった。 また、三五郎が、住民の負担を軽くするために、どうしたら安い経費で、しかも丈夫な橋をかけることができるか、心をくだいている姿を見て、若い甥は感動を覚えるのだった。 叔父のもとで、厳しい修行を積んだ勘五郎は、いつの間にか立派な棟梁として石工の集団を率いて仕事をするようになっていた。 ある時、勘五郎は、工事の監督を弟子の文八に任せて、今度かける橋の設計をしていた。そこへ文八が飛んできた。 「親方、大変です。けんかです。止めに入りましたが止まりません。」 「なんということだ。この大事な時に。」 普段は物静かな勘五郎だが、この時の処置は厳しかった。彼は常々弟子たちに、 「よいか、石を組むことは人の心を組むことなのだ。人と人の心がしっかり組み合わさってこそ、橋に命を吹き込むことができるのだ。」 と教えていた。この信念のもとに仕事をする勘五郎は、仕事場でのいさかいやもめごとを非常に嫌っていたのである。彼はけんかをした男たちを呼びつけると、一言の言い訳も聞かずにすぐ荷物をまとめさせて村へ帰してしまった。 勘五郎には四人の男の兄弟がいた。それぞれに名のある石工として活躍していたが、この兄弟は心を合わせて、種山石工の団結を強め、その技術を高めていった。 矢部の惣庄屋布田保之助から通潤橋をかける仕事について依頼があった時、勘五郎は、(この仕事はきっと種山石工一族にとって、名誉にかかわる歴史的な大きな仕事になるだろう。)と思った。 兄弟たちは何度も集まっては話し合った。 「今度の橋は水を通す橋であるから、これまでよリもずっと難しい技術がいる。布田さまも覚悟を決めてこの仕事に取りかかられた。我々種山石工も全力でそのお頼みにこたえよう。」 兄弟たちは、それぞれの仕事の分担をしっかり決め、弟子や人夫たちにも細かいところまで、それぞれに役割を与えた。綿密な計画と兄弟の意気込みで工事は順調に進んでいった。 勘五郎は時として連絡のために、矢部と種山を行き来しなければならなかった。七里の山道を、昼まで仕事をしてから矢部を出発し、種山に帰りつくのは、いつも夜遅くであった。家では家族がみんなでわらじをつくり、握り飯をこしらえて、すぐ帰リの準備を始める。彼は用を済ませると、すぐ矢部に引き返し、工事が済むまで家でゆっくり休養することはなかった。 橋本勘五郎は、明治になって皇居の旧二重橋や、日本橋などの架橋に従事し、肥後の石工の名は日本中に響き渡った。しかし、勘五郎たちは、決してそれで名を売ったり、利益を上げたりしようとはしなかった。 祖父の林七が小さな谷川に、牛馬が通る小さな橋、洪水に流されない頑丈な橋をかけたように、彼らは人々が安心して渡る橋をかけたかったのである。 その橋が風雪に強いのも、私たちの心を打つ美しさを持っているのも、そのせいではなかろうか。」
(道徳教育用郷土資料『熊本の心』から)
(今回の舞台)
(2017年2月25日)