矢部の歴史と八朔祭
★約260年前から町民によって代々受け継がれてきた「矢部の八朔祭」。田の神に感謝し、豊作を祈願するこの祭は、造り手の高齢化や運営費の削減等で岐路に立たされているが、九州横断自動車道延岡線の開通を見据えて、活性化が図られることを期待したい。
“山にあって都の賑わいを”という願いが込められた町名を持つ「熊本県上益城郡山都町」。この山都町は、2005年(平成17年)2月に上益城郡矢部町と上益城郡清和村、阿蘇郡蘇陽町とが合併し誕生した行政区(地方自治体)であるが、更に遡れば、それぞれ「昭和の大合併」により、浜町、下矢部村、白糸村、御岳村、中島村、名連川村(以上、矢部町)、朝日村、小峰村(以上、清和村)、馬見原町、菅尾村、柏村(以上、蘇陽町)が合併して出来た「多様性のある地域」である。 そして、この山都町の中心部「矢部(浜町)周辺地区」には、「浜の館」、「通潤橋」、「八朔祭」という地区を代表する史跡・無形民族文化財がある。
【浜の館】 「浜の館」は、矢部町(浜町)にあった中世の阿蘇大宮司の館(=阿蘇氏が最盛期を誇っていた時代の支配拠点)である。そもそも、阿蘇神社(肥後国一の宮)の大宮司を務める阿蘇氏は、古代から阿蘇谷を根拠地とする豪族であったが、十二世紀後半までに甲佐神社(肥後国二の宮)、郡浦神社(肥後国三の宮)、健軍神社(肥後国三の宮)を末社としてその社領も支配下に組み込み、中世には武士団の棟梁としての成長を遂げて、阿蘇谷・南郷谷・小国郷・矢部郷を完全に勢力下におく。これに伴い、支配拠点(本拠)も阿蘇谷から南郷谷へ、さらに南外輪山を越えた矢部郷に移すことで、肥後国中部地域一帯の支配を確実にしていった。 現在、「浜の館」跡は県立矢部高校になっており、同校の改築に伴っておこなわれた発掘調査では阿蘇氏が隠しておいたと思われる宝物類などが見つかっている。 隣接する「矢村神社」には、阿蘇氏が矢部に移って居を構える際、弓矢を放ち、ここに白羽の矢がささり、「浜の館」を構えたといういわれが残っている。 阿蘇大宮司家は戦国時代になって、九州を制圧した豊臣秀吉によって滅ぼされる(阿蘇家の幼主惟光が謀反の罪で自刃させられた)が、肥後国初代藩主・加藤清正公によって名誉を回復され(惟光の弟の惟善が阿蘇大宮司職への復帰を認められ)、肥後一の宮・阿蘇神社は再興された。(ただし、本拠が矢部に戻ることはなかった)
「阿蘇家 浜の館」ふるさと寺子屋(熊本県観光サイト・なごみ紀行)↓ http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=052&pre_page=3
(浜の館跡)
(矢村神社)
(矢村神社由緒板)
【通潤橋】 江戸時代には加藤氏を経て細川氏へ支配が引き継がれ、矢部郷は「矢部手永」という行政区に位置づけられた。また、この時期、熊本城下から宮崎県高千穂を経て延岡に至る日向往還が整備され、浜町はその宿場町として栄えた。さらに、幕末には、矢部手永の惣庄屋であった布田保之助が中心となり、水不足に悩んでいた白糸台地に水田を開くために通潤用水が建設された。そのシンボル的存在である「通潤橋」(国重要文化財)は、日本最大級の石造アーチ型水路橋として全国に知られている。 残念ながら、平成28年熊本地震では「通潤橋」も大きな被害を受けた。橋上にある通水石管の継目から著しい漏水が生じ(橋梁本体部)、さらに周辺部でも水路法面の崩落等が生じた。しかし、山都町を中心とする関係者の尽力により、既に本格的な復旧工事に着手、平成30年度完了を目途に鋭意工事が進められている。
通潤橋保存修理工事”見学所”オープン(山都町ホームページ)↓ http://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/life/pub/detail.aspx?c_id=46&type=top&id=803
通潤橋見学パンフレット(山都町ホームページ)↓ http://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=46&id=803&sub_id=2&flid=4359
山都町復興計画(熊本地震・豪雨災害)(山都町HP)↓ http://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=84&id=720&sub_id=1&flid=4047
(通潤橋)
(保存修理工事中)
【八朔祭】 矢部の「八朔祭(はっさくまつり)」は、田の神に感謝し、収穫の目安を立てる日とされる旧暦8月1日(八朔)の日に始まり、約260年前から町民によって代々受け継がれてきた。その起源は、宝暦8年(1758年)に矢部郷の不作を心配した細川藩が、矢部手永の惣庄屋・矢部忠兵衛公豊に命じて豊作祈願を行った(商家の人たちが農家の人たちをねぎらい、手厚いおもてなしを行った)ことによると言われている。現在では、毎年9月第1土曜日・日曜日に、豊年祈願と商売繁盛を願って盛大な祭りが執り行なわれている。 祭り最大の呼び物は、竹、杉、すすき、松笠などの自然の材料で各連合組が技術を競い合いながら作る「大造り物」で、その年の世相風刺や庶民の願望などを上品な洒落を交えて表現するのが特徴。高さ3メートル程もある「大造り物」が八朔囃子とともに町内を引き廻されるさまは圧巻である。 今年も9月2日(土)・3日(日)の両日、矢部の八朔祭が盛大に執り行なわれた。
山都の祭「八朔祭」(山都町観光協会)↓ https://kumamotoyamatotour.wixsite.com/mysite/hassakumatsuri2
「八朔祭」ふるさと寺子屋(熊本県観光サイト・なごみ紀行)↓ http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=096&pre_page=5
八朔祭の由来について紹介します(山都町郷土史伝承会)↓ http://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/ijyuuhp/a0022/Oshirase/Pub/Shosai.aspx?AUNo=286&bunrui=&Pg=3&St=0&OsNo=4
(「八朔の日」は収穫の目安を立てる日)
(大造り物)
(大造り物)
(八朔祭の風景)
(八朔祭の風景)
(八朔祭の風景)
(八朔祭の風景)
(八朔祭の風景)
平成29年8月28日付け熊本日日新聞(ローカルワイド県北版)に、「山都町の八朔祭が、造り手の高齢化や運営費の削減に加え、熊本地震の影響で岐路に立たされている。伝統を守り続けようと関係者たちは奔走するが、妙案は見いだせていない」とする取材記事が掲載されていた。250年上の伝統を誇る矢部の八朔祭も、昨今は難しい局面を迎えているようだ。一方で、記事の後半には「一方、地元が「千載一遇の好機」と期待するのが九州横断自動車道延岡線だ。18年度の町内の北中島IC開通を見据え、町は浜町商店街に観光拠点施設を整備。大造り物を制作・展示する小屋の建設も進め、4月に3カ所目が完成した。観光客を迎える環境は整いつつある」とあった。 九州横断自動車道延岡線の整備によって、新しい人の流れ、経済の流れが生み出される、沿線地域の豊富な農林水産資源や大自然、多くの特徴ある観光資源等がこれまで以上に活かされる。矢部の八朔祭も例外ではない。 そして、今後高い確率で起こる可能性がある南海トラフ巨大地震等の大規模災害発生時において、救援物資や医療関係者を円滑かつ迅速に輸送するため、また、平常時を合めた第三次救急医療施設への搬送時間短縮による救急医療活動支援のための“命の道”としても、九州横断自動車道延岡線の早期整備が求められている。
(今回の舞台)
(2017年09月03日)
関連ページ(熊本国土学) <第2回>農耕の道を教え、国土の開拓に尽くされた肥後の一の宮「阿蘇神社」(2016/03/27)