『水の生まれる里』を豊かにした生産インフラ『南阿蘇村疎水群』
★『水の生まれる里』南阿蘇村が現在のように豊かであるのは、先人達が郷土にたゆまなく働きかけ続けてくれたおかげである。阿蘇南郷谷開拓の大恩人、南郷米の祖である片山嘉左衛門松翁の偉業は、「顕彰の碑」となって今に語り継がれている。
【南阿蘇村を支える交通インフラ/熊本地震からの復旧・復興】 阿蘇カルデラの南部、阿蘇五岳と外輪山に挟まれた南郷谷に位置する「南阿蘇村」。田園風景が広がる県内屈指の観光地は、熊本地震で激甚な被害を受けた。南阿蘇村は平成の大合併で阿蘇郡長陽村・久木野村・白水村が合併して発足した大きな村であるが、その玄関口である立野火口瀬付近(阿蘇外輪山の切れ目でカルデラの入口)の被害が特に大きく、大規模斜面崩壊に伴う「国道57号及び国道325号(阿蘇大橋)の通行止め」やJR豊肥本線、第三セクター・南阿蘇鉄道の運行休止は今も続いている。 しかし、一昨年12月24日に俵山トンネルルート(県道28号熊本高森線)が開通、昨年8月27日には長陽大橋ルート(村道栃の木~立野線)も開通したことで、熊本から南郷谷方面への交通が復活。さらに、同10月4日には県道阿蘇吉田線の南阿蘇側ルートが開通し、阿蘇登山道が南北に繋がったことで、地震後に停滞していた阿蘇周遊観光の本格的回復(観光客の大幅な回復)が期待されている。また、平成32年度内の完成供用を目標として復旧工事が進められている国道325号(阿蘇大橋)とあわせ、昨年末には、南阿蘇鉄道の全線復旧に向けた国の財政支援制度も閣議決定され、復旧から復興へ向かうためのしっかりとした道筋が見えてきた。
熊本地震道路復旧状況(九州地方整備局)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/kumamoto/fukkyuu.html
【熊本県(九州)を代表的する観光地『水の生まれる里』南阿蘇村】 熊本地震発生後は、前述の交通インフラの復旧に関するニュースや大規模斜面崩落等で長期避難を余儀なくされてきた「立野地区(旧長陽村)」に関する話題で全国的な知名度のあがっている南阿蘇村であるが、もとは熊本県(九州)を代表的する観光地(阿蘇五岳、白川水源、一心行の大桜(樹齢400余年)、阿蘇ファームランド、南阿蘇鉄道トロッコ列車などがある)というポジションであった。 なかでも『白川水源』は、南阿蘇村を代表する観光スポットで、環境庁(現・環境省)の「名水百選」にも選ばれている。この水源は常温14℃の水が毎分60トンも湧き出て、熊本市内の中央を流れる白川の源の一つとなっており、水質も良好で遠くから水を汲みにくる人も多い。また、清冽で豊富な湧水の守護神として、遊水池には吉見神社があり、南阿蘇村自然環境保全地域として保全されている(白川水源/名水百選(環境省)より)。さらに、村内(白川沿い)には、白川水源の他にも多数の湧水があり、これらは『南阿蘇村湧水群』として「平成の名水百選」に選定されている。 そして何より、南阿蘇村は『水の生まれる里』として、国土庁(現・国土交通省)の「水の郷百選」に選定されており、地域固有の水をめぐる歴史文化や優れた水環境の保全に努め、水を活かした町づくりや村づくりに優れた成果をあげている。
南阿蘇村湧水群/平成の名水百選(環境省)↓ https://water-pub.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/data/index.asp?info=92
水の生まれる里/水の郷百選(国土交通省)↓ http://www.mlit.go.jp/tochimizushigen/mizsei/mizusato/shichoson/kyushu/minamiaso.htm
白川について(国土交通省熊本河川国道事務所)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/kumamoto/river/shirakawa/
(白川水源2015.12)
【南阿蘇村を豊かにした生産インフラ『南阿蘇村疎水群』】 『水の生まれる里』南阿蘇村が現在のように豊かであるのは、先人達が郷土にたゆまなく働きかけ続けてくれたおかげであり、その代表的な成果が『南阿蘇村疎水群』である。 『南阿蘇村疎水群』は、江戸時代(1667年)、肥後細川藩から南郷中用水方定役に任ぜられた、片山嘉左衛門によって開削された、久木野地区「保木下井出」(約5000メートル)にその端を発している。 嘉左衛門はその後27年間に渡り献身的にその半生を水利事業にささげ、その後四代にわたり片山家が南郷の水利事業にかかわって計6本の疏水群が開削された。 現在では久木野地区だけでも水路延長は31キロメートル、受益面積は600ヘクタール、村内の用水路開削はその後網の目のように発展し、水田面積は1700ヘクタールにも及ぶこととなり、地域の産業基盤として長年にわたり脈々と地域住民により維持管理されている。(南阿蘇村疏水群/疎水百選(疎水名鑑)より) 晩年「松翁(しょうおう)」と号した片山嘉左衛門の偉業は、土地改良区、関係水利組合などで構成される「松翁顕彰会」によって、「顕彰の碑」というかたちで地域(上二子石地区の県道28号線沿い)に具現化されている。 そして『南阿蘇村疎水群』は、農林水産省の「疎水百選」(日本の農業を支えてきた代表的な用水)に選定されている。(熊本県内では、上井手用水、南阿蘇村疎水群、通潤用水、幸野溝・百太郎溝の4つの用水が選定されている)
-・-・-・-・-・-・-・(顕彰の碑文)・-・-・-・-・-・-・-
南郷用水の祖 片山松翁之碑 第六十二代村上天皇後裔と傳ふる赤松則村を遠祖とする片山家、第三代片山嘉左衛門は、寛永十二(一六三五)年二月生れ、初代祖父角内は小西、加藤両家に仕え、父は島原の乱に戦功ありし廣助なり。万治二(一六五九)年に家督相続、二十五歳にして南郷中用水方定役を命ぜられ、在職二十七年間、六十一歳にして隠退し松翁と号す。阿蘇南郷谷は白川の湧水源もあれど、平地部少なく、南外輪山、北阿蘇山の急斜面なれば灌漑に便せず、水田少なく、大雨の時は水害多発して農民を貧困に陥れたれば松翁は、白水の水を善用して水田を開拓し農民を救済せんと決心、先ず松翁居住地の農民に水路開発の話をもちかけたれど、住民何れも水害の増発を恐れて反対し、協力せず。翁、それでは対岸、久木野、二子石方面の農民に協力を頼まんと思い立ち、苦心惨憺、漸く説得し、延宝二(一六七四)年、保木下井手の工事に着手せしが、ここも又反対する者起り工事に協力せず。翁は遂に高森方面より人を雇う等、私財を投じ開拓を続行し、久木野大谷川に至るまで、距離一里餘、幅二間、深さ四尺の水路満八カ年を要し、天和二(一六八二)年完成せり。開田作は延宝二(一六七四)年より十五カ年の歳月を経て、元禄二(一六八九)年、通水するに至る。水田百数十町歩に及べりと言う。其の秋水稲の黄金色を眺望したる農夫の歓喜の姿、想像に餘りあり。然るに翁はかかる小成に安んぜず、反対を唱えたる者の漸く改心したるの機を察し、順次居住村下市付近の水路開拓、久木野に於いても琵琶首より取入れたる琵琶首井手、上河原井手等の開拓、又、白水村内の下鶴、小池、竹崎、浜園等、翁開削の井手は白水・久木野両村に跨り、その井手筋の水田は三百四十五町餘に及び、両村現有の水田計九百五十六町に対して三割五分四厘に当る。毎年の出来高は平均約三万六千俵に達し、良質美味の評価は全国に知らるるに至れり。松翁は水路の決定の技術を、体重や米俵の如き重量大なるを量る大秤(ちきり)に求め、白水村一関の一の坂と稱する高所より久木野村を見渡し、斤量式測定法を考案し、井手の勾配を定め、水路通過の地点を、夜間、提燈の合図によて決定されたる由。 南阿蘇開拓の恩人松翁は享保二(一七一七)年、八十三歳にて病没。その後継者も代々用水方定役、その他要職に就き功績を残さる。よって松翁の功績に対し藩公より御赦免田として、久木野、白水両村内に亘り約九町歩の地を賜る。然れども、明治八(一八七五)年、地租改正により課税さるるに至れり。 この辺りの事情は、久木野村誌第一巻及び第三巻によって承知せられたし。
藤崎清一
阿蘇南郷谷開拓の大恩人、南郷米の祖である片山嘉左衛門松翁の偉業を称え、後世にその功績を伝えんと松翁顕彰会を設立し、ここに片山松翁顕彰碑を建立する。 平成十八年六月八日
松翁顕彰会
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南阿蘇村疏水群/疎水百選(疎水名鑑)↓ http://midori.inakajin.or.jp/sosui_old/kumamoto/a/346/index.html
南阿蘇村疏水群/熊本県の疏水百選(水土里ネット熊本)↓ http://www.higosanae.or.jp/sosui/sosui_kuma.html
久木野の名水と疏水群(南阿蘇村から 自然との優しい共存)↓ http://www2u.biglobe.ne.jp/~g-grass/mizu/suigen.html
(南阿蘇村の田園風景)
(南阿蘇村疏水群の水源「竹崎水源」)
(南阿蘇村疏水群)
(南阿蘇村疏水群)
(片山嘉左衛門松翁顕彰碑)
(顕彰碑文)
(嘉左衛門が考案したとされる斤量式測量法の説明文)
(今回の舞台)
(2018年2月4日)
関連ページ(熊本国土学) <第15回>白川を治める、その難しさ(2016/10/22)