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豊橋発展の礎「インフラ整備」<『かがやく豊橋』②>

★現在の豊橋の産業・経済や市民生活は、先人たちの郷土への働きかけの成果である「様々なインフラ整備」によって支えられています。


豊橋の風景

 豊橋市は、弓張山地(東)、三河湾(西)、太平洋(南)、一級河川・豊川(放水路)(北)に囲まれた自然豊かなまちです。地形はおおむね平坦で、東の山地や丘陵地から西の三河湾へと緩やかに傾斜しています。気候は温暖で、全国的にみて日照時間の長い場所にあります。

 豊橋駅を中心とする市の中央部は、時代の流れとともに変容しながら、新たな賑わいを創出してきました。新幹線や路面電車をはじめ、豊橋駅を発着する鉄道・バス路線は、市内外を結ぶ基幹的な公共交通機関としてだけでなく、まちなかの賑わいの創出にも大きな役割を果たしています。



 また、市の中心部には吉田城趾などの歴史的資源が残り、江戸時代の城下町の風情が都市の魅力として現代に息づいています。かつて豊川にはお伊勢参りや物資運搬の船が往来し、人々は吉田城の雄姿を眺めて旅をしたといわれています。その城と川の眺めは浮世絵の画題となる名所のひとつでした。

 市の西部には、明治時代に開発された神野新田が広がっており、さらにその先には日本を代表する自動車港湾である「三河港」と臨海工業地帯が形成されています。ちなみに、三河港の輸入自動車取り扱い量は、1993年(平成5年)から29年連続で金額、台数ともに日本一となっています。

 市の南部には、戦前、軍用地が広がっていましたが、戦後は、食糧危機を打開すべく入植者により開拓が進められました。やせ地の上、水利の悪さもあって、開拓は困難を極めましたが、豊川用水の建設によって、この地域の農業や工業は大きく発展しました。現在ではキャベツ畑が広がり、全国有数の農業王国となっています。

 さらにその先の太平洋に面した表浜海岸には、高さ40メートルにも及ぶ海食崖と美しい砂浜が続いています。表浜海岸はアカウミガメの産卵地としても知られ、これを守る市民活動もみられるなど、人の手で守り続けられています。また、レクリエーションとして、釣りやサーフィンなど多くの人が訪れる雄大な景勝地となっています。

 市の東部には、弓張山地や丘陵地(葦毛湿原を含む)が広がり、南東部のJR東海道本線「二川駅」周辺には、江戸時代の東海道五十三次33番目の宿場町「二川宿」の町割りや歴史的な建物が残っています。軒の連なる落ち着いたまちなみは、当時の宿場町の風情を強く感じることができます。

 市の北部は、弓張山地とそのふもとに広がる柿畑などの田園が広がり、古くからの集落も残り、美しい景観を形成しています。


 豊橋はこんなまち|豊橋市



社会科副読本『かがやく豊橋』で学ぶ、豊橋市の西部・南部の様子

 豊橋市教育委員会が作成した小学校3・4年生向けの社会科副読本『かがやく豊橋』は、前回取り上げた市の中心部に引き続き、市の西部と南部の様子を次のように伝えています(第1章第4節「「1.わたしたちのまち豊橋(4)豊橋市の各地の様子」に掲載)。ここでは、神野新田、三河港、豊川用水といったインフラ整備が、豊橋市の発展の礎となっていることが示されています。


社会科副読本『かがやく豊橋』で学ぶ、豊橋の工業を支える港湾と道路

 また、副読本第2章第2節「2.豊橋で働く人々(2)工場で働く人」では、豊橋市内(三河港沿い、二川地域)の工場立地は交通インフラ(三河港、国道1号)を前提としている、そのことが紹介されています。



社会科副読本『かがやく豊橋』(豊橋市教育委員会)の学習コンテンツ


豊橋の産業・経済や市民生活を支えている「インフラ整備」

 副読本にあるように、現在の豊橋の産業・経済や市民生活は、先人たちの郷土への働きかけの成果である「様々なインフラ整備」によって支えられています。

(1)神野新田

 現在、田畑が広がる豊橋市牟呂周辺地域一帯は「神野新田」と呼ばれていますが、ここは、明治時代に神野金之助によって整備された干拓地で、神野新田ができる以前、同位置には通称・毛利新田と呼ばれる干拓地がありました。

 毛利新田は、毛利祥久(長州藩一門家老である右田毛利家の13代当主、第百十国立銀行頭取)によって整備された約1100町歩(1町歩は、ほぼ1ヘクタールと同じ)の巨大干拓地でしたが、完成から間もない1891年(明治24年)の濃尾地震、翌1892年(明治25年)秋の暴風雨・高潮によって、堤防が壊滅的な被害を受けたことから、修復の目途が立たず、再築は断念されました。

 1893年(明治26年)、この土地を買い取ったのが八開村(現在の愛知県愛西市)出身の事業家・神野金之助で、長い年月と巨額の費用が投じられ、新田・用水の修復が行われました。修復にあたっては、毛利新田の経験(失敗)を踏まえ、①人造石を採用する、②堤防を以前より高くする、③海面側の堤防の角度をより急にするといった改善策が講じられました。また、神野新田の開発とあわせて、牟呂用水の建設も進められました。この時、整備された総延長約12kmに及ぶ堤防のうち、特に重要な堤防上には、大日如来を起点として、100間(約180m)毎に合計33体の観音様が建立されました。この33体の観音様は「護岸観音」として親しまれ、今も新田の安全を見守っています。

 1896年(明治29年)の完成から120年以上が過ぎた現在、周辺地域では、三河港や国道23号バイパス等の交通インフラの整備と相まって、数多くの企業立地も進んでいます。神野新田は今や農業だけでなく、工業地帯としても発展し、豊橋の産業に欠かすことのできない存在となっています。


 神野新田資料館|豊橋観光コンベンション協会


 神野新田の歴史と金之助の偉業を知って 豊橋美博で企画展(2022.05.11掲載)|東愛知新聞


神野新田(資料館展示)


神野新田紀徳之碑


(2)三河港

 三河港は、1962年(昭和37年)に豊橋、蒲郡、田原、西浦の4港が統一され愛知県の管理港として誕生し、1964年(昭和39年)4月には重要港湾に指定されました。木材、鉄鋼、自動車などの企業が進出した昭和40年代以降、三河港は自動車産業の拠点港湾として飛躍的な発展を遂げました。昭和50年代には三菱自動車(1978年に蒲郡地区)、トヨタ自動車(1981年に田原地区)、スズキ(1983年に神野地区)が相次いで自動車輸出を開始したことに加え、平成に入ってからはメルセデス・ベンツやフォルクスワーゲンなど欧米自動車メーカーの日本法人が相次いで進出したことから、輸出入ともに世界トップクラスの取り扱いを誇る国際自動車港湾になりました。

 とりわけ、輸入自動車の取り扱い量は、1993年(平成5年)から現在に至るまで、29年連続で金額、台数ともに日本一を続けており、三河港は「日本一の輸入自動車取扱港」として確固たる地位を築いています。最新のデータによると、2021年(令和3年)の三河港の自動車輸入台数は17万5300台(速報値)で、外国車の2台に1台が三河港で陸揚げされていることになります。


 【御津地区】東名高速道路や一般国道23号名豊道路へのアクセスも良い工業団地。新たな産業拠点として工業用地や公共岸壁が整備されています。


 【神野地区】税関・出入国管理・検疫等の関係行政機関が集約している三河港の中心地区。メルセデス・ベンツなどの外資系自動車企業が立地する自動車の輸入拠点であり、豊橋コンテナターミナルを有する三河港の物流拠点でもあります。


 【明海地区】かつて豊橋海軍航空隊基地であった大崎島の外周を埋立造成した産業基地。自動車関連、住宅、化学、食品関連、物流関連企業など多業種が立地しており、当地区の工業出荷額は豊橋市全体の約40%を占めています。


 【田原地区】トヨタ自動車田原工場・専用ふ頭がある国産自動車の輸出拠点(主に北米向け)。国内最大規模のメガソーラーや風力発電施設が立地する再生可能エネルギー施設の集積地でもあります。


 三河港振興会


 愛知県三河港務所


 PortRait|一般社団法人日本埋立浚渫協会


 三河港の歴史|愛知県


 三河港の魅力を伝える「豊橋みなとフェスティバル2022」が開催されました(2022年7月22日)|PR TIMES


 統計から見る豊橋/貿易|豊橋市


三河港と「豊橋みなとフェスティバル」


カモメリア(ポートインフォメーションセンター)


(3)豊川用水

 豊橋市を中心とする愛知県東三河地方は、気候条件(温暖である)や産業立地条件(中京・京浜市場へのアクセス性が良い)に恵まれながらも、水源に乏しく、水不足が産業発展の大きな課題となっていました。特に、大きな河川がない渥美半島や豊橋市南部地域では、農業用水も雨が頼り。人々は水不足と日照りに悩まされ、作物を育てるのに大変苦労していました。

 そんな郷土の人々のために、豊川から灌漑用水を引くことができないか?と考えたのが、渥美郡(現在の田原市)出身の政治家・近藤寿市郎(後に県会議員、衆議院議員、豊橋市長を歴任)でした。

 1921年(大正10年)のインドネシア視察で目にしたオランダの農業水利事業をヒントに、豊川上流の鳳来町(現在の新城市)にダムを建設し、貯めた水を東三河地方に導水するという構想を抱きました。実現のため郷土の人々に構想を説き、自らも国等に精力的に働き掛けた結果(先の大戦などでの紆余曲折がありましたが)、1949年(昭和24年)、宇連ダムを皮切りに国営事業として豊川用水の建設工事が始まりました。1958年(昭和33年)には農業用水の他に水道用水と工業用水の開発が追加され、寿市郎の着想から約半世紀後の1968年(昭和43年)、豊川用水はついに完成しました。

 完成後、豊川の水は渥美半島、静岡県湖西市まで行き渡り、この地方の農業、工業における今日の発展の礎となりました。農業面では、都市近郊という地域性を生かした露地畑のキャベツ、ブロッコリーや、施設園芸作物のきく、トマトなど収益性の高い営農がなされ、全国トップクラスの生産額を誇る日本有数の農業地域に発展しています。


 水資源機構豊川用水総合事業部


 豊川用水|愛知県


 豊川用水|あいとよネット/愛知・豊川用水振興協会


 豊川用水事業|水土の礎/農業農村整備情報総合センター



豊川用水(豊橋市東七根町)



渥美半島のキャベツ畑


(今回の舞台)



(2023年01月08日)

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