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枝下用水と社会科副読本『豊田』<三河国土学⑨>

★豊田市の小学4年生は、枝下用水(近代における挙母地域の農業基盤整備)またはトヨタ自動車(現代における工業都市・豊田市の発展)のいずれか一つをテーマとして取り上げ、郷土学習を実践しています。


インフラ整備の重要性を学ぶ/小学4年生の郷土学習「地域の発展に尽くした先人」

 現在、私たちが享受している安全で快適な生活は、先人たちが森林や田畑、鉄道や道路を整備し、川を治め、水資源を開発するなど、絶え間なく国土に働きかけを行うことによって、国土から恵みを返してもらってきた歴史の賜物です。

 そして、こうしたことを学校で学ぶことができるのが小学4年生の社会科。「地域の発展に尽くした先人が、様々な苦心や努力により当時の生活の向上に貢献したこと」を学ぶ学習プログラムが位置づけられています。【神野新田の干拓と牟呂用水<『かがやく豊橋』⑨>参照】

 例えば、出版社別占有率(全国)が最も高い東京書籍の教科書は、通潤橋(熊本県山都町の白糸台地に布田保之助らによって架けられた石橋)を学習素材として取り上げ、『谷に囲まれた台地に水を引く』というタイトルで、18 頁を割いて説明がなされています。

 この学習プログラムは、戦後の小学校の学習指導要領が、一貫して、児童の学習能力が高まった小学4年生の社会科において義務付けてきたもので、長年にわたり、土木・インフラの役割や重要性を学ぶ機会を提供してきました。


 小学4年・社会科で学ぶ「水インフラ」「防災」「先人の働き」(建設マネジメント技術2022.7)


社会科副読本『豊田』で学ぶ「枝下用水」

 豊田市教育委員会が作成した小学校4年生向けの社会科副読本『豊田』(2020年4月1日、改訂18版)にも、「地域の発展に尽くした先人が、様々な苦心や努力により当時の生活の向上に貢献したこと」を学ぶ郷土学習素材が含まれています。

全ページ数136ページのうち、郷土学習素材は「きょう土の伝統・文化と先人たち」という章の第2節にあって、「枝下用水を引く(16ページ)」及び「クルマのまちをきずく(18ページ)」という2つのテーマが載録されています。また、副読本の目次には、「どちらか一つを選んで学習しましょう」と書かれているので、豊田市の小学4年生は、枝下用水(近代における挙母地域の農業基盤整備)またはトヨタ自動車(現代における工業都市・豊田市の発展)のいずれか一つをテーマ(教材)として取り上げ、郷土について深く学ぶことになっているようです。つまり、豊田市民としてのアイデンティティを確立する上で、枝下用水はトヨタ自動車と並ぶ重要な要素であると云うことかと思います。


 豊田市の小学校社会科副読本『とよた』『豊田』(2022年04月20日)/枝下用水日記|枝下用水資料室


 豊田市立小学校社会科副読本『豊田』届く(2020年04月25日)/枝下用水日記|枝下用水資料室


 <教材>としての枝下用水 〜社会科副読本において枝下用水はどのように語られてきたか〜(川田牧人)/矢作川研究 No.17(2013)|豊田市矢作川研究所



枝下用水のあらまし

 枝下(しだれ)用水は、水土里ネット豊田(豊田土地改良区)が管理している農業用水路で、矢作川を水源として(現在の取水口は越戸ダム)、豊田市南西部地域(旧豊田市の全域)及び知立市、みよし市の一部地域、約1,560haを灌漑する農業用水です。

 江戸時代以前、高台にあったこの地域は、碧海郡一帯(安城を中心とした地域)と同様に、農業用水を溜池に頼るほかない枯れた土地柄でありました。このため、文化・文政期に都築弥厚が発案・測量した用水路計画には、当該地域(枝下用水地域)も位置づけられていたようですが、明治用水の開削の際には県の勧告もあり、対象から外されてしまったという経緯があるようです。

 枝下用水は、1876年(明治9年)に地元有力者たちが用水路開削を計画し、測量を行い、各村に呼びかけて開削の賛同を得たことに始まります。その後の紆余曲折はあったものの、1886年(明治19年)から民間の出資により事業が始まり、翌1887年(明治20年)には山口県士族・時田光介や近江商人・西澤眞造らによって三河疏水事務所が開設、県と共に開削事業が進められました。その後、1890年(明治23年)になって県が事業から撤退し、民間単独の事業(民間人によって開削され、水利権が売買される「企業的用水経営」は全国でも稀)となり、大規模災害や資金難にも苦しめられましたが、西澤らは同年、枝下用水の幹線(約21km)と東井筋(約9km)を竣工し、さらに1892年(明治25年)に中井筋(約13.2km)を、1894年(明治27年)に西井筋(約10km)を竣工し、総延長約50kmに及ぶ枝下用水の原型が完成しました。

 このように、枝下用水は、西澤真蔵という企業家が「私財をなげうって」出来た私的な事業でありましたが、彼の「公共」心がこの地に偉大な功績を遺すこととなりました。晩年、枝下用水の前途を慮りながらも、病のためその生涯を終えた西澤は、次のような言葉を残しています。

 「我、官庁の言を信じ巨万の富を喪失したれども、幸いに一望の広闊の荒野を化して美田に治めたれば、個人の財は失ふても国家に富源を得たりといふべく、亦聊か慰むべし。」


 土地改良施設の紹介(枝下用水)|水土里ネット豊田(豊田土地改良区)


 枝下用水130年史~偉なる哉疏水業~|豊田市近代の産業とくらし発見館


 枝下用水資料室


 豊田市・枝下用水旧水路の人造石遺産(天野武弘)/中部産遺研会報第91号|中部産業遺産研究会


※完成後の枝下用水は、矢作川下流で取水する(古田優先を主張する)明治用水との水利権紛争が絶えない中、その一方で、管理運営母体の体制強化が求められたことから、1926年に明治用水と合併し、明治用水組合の一支部となった。しかし戦後は、挙母市が豊田市となり、農業事業費の受け皿となる組織体が必要とされるようになったことを受け、1968年に枝下用水土地改良区として明治用水組合(1952年に土地改良区)から分離独立。さらに「47災害」(1972年)の膨大な復興事業費の獲得を契機に、豊田市域の農業を支える豊田市の枝下用水土地改良区(後に合併して豊田土地改良区)として定着していく。


越戸ダム(豊田市平戸橋町)


枝下用水幹線水路(豊田市平戸橋町)


枝下緑道(豊田市小坂本町)


枝下東用水緑道(豊田市丸山町)

※パイプライン化された枝下用水3支線の上には枝下緑道が整備され、市民に憩いの場を提供している。


枝下用水受益地(豊田市丸山町)


枝下川神社①(豊田市平戸橋町)

※枝下用水の竣工を記念して明治27年に創建された。主神に大水上祖神を勧請し奉賓の誠を捧げると共に、昭和43年には私財を投じて枝下用水を完成させたご恩に報いるべく用水の守護神として西澤真蔵が合祀された。


枝下川神社②(豊田市平戸橋町)


枝下用水旧用水路と枝下用水旧第二樋門(豊田市枝下町)

※枝下用水の取水口は現在、越戸ダムに移されているが、人造石(土木技術者・服部長七が発明した)で施工された枝下用水「旧用水路」や「第二樋門」などは、矢作川右岸に現存している。


(今回の舞台)



(2023年11月26日)

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