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昭和東南海地震の記憶<愛知の歴史災害⑤>

★終戦前後の厳しい時代、日本人は大規模自然災害とも闘わなければなりませんでしたが、先人たちはこうした苦難を乗り越えて戦災復興を果たし、さらに高度成長を成し遂げました。

 

大規模空襲/戦災復興と大規模自然災害との闘い

 太平洋戦争末期、わが国(国民)は米軍による空からの爆撃(無差別戦略爆撃)の恐怖にさらされていました。主力となったアメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機、B-24爆撃機により日本の主要都市は焦土と化し、広島・長崎に投下された原子爆弾を含め、数十万人から百万人もの人々が犠牲になったと云われています。さらに、戦争が終わってからも、わが国(国民)は深刻な食糧難とインフレによる生活難に見舞われました。こうした中、焦土化した国土を復興しなければならなかった・・・。

 そのような中、実は、大規模な地震や強烈な台風が日本列島を繰り返し襲っていたのです。終戦直前から終戦直後にかけてのこの厳しい時代、日本人は大規模自然災害とも闘わなければなりませんでした。

  ◆1944年12月「昭和東南海地震」死者・行方不明者1,223人

  ◆1945年 1月「三河地震」死者2,306人

  ◆1945年 9月「枕崎台風」死者・行方不明者3,760人

  ◆1946年12月「昭和南海地震」死者1,330人

  ◆1947年 9月「カスリーン台風」死者・行方不明者1,930人

  ◆1948年 6月「福井地震」死者3,770人

  ◆1948年 9月「アイオン台風」死者・行方不明者840人

  ◆1949年 8月「ジュディス台風」死者・行方不明者179人

  ◆1949年 8月「キティ台風」死者・行方不明者160人

  ◆1950年 9月「ジェーン台風」死者・行方不明者593人


災害史 太平洋戦争敗戦前後(1944~1950年)

 

昭和東南海地震

 昭和東南海地震は、1944年(昭和19年)12月7日13時36分頃発生した熊野灘を震源とするプレート境界型巨大地震(Mj7.9)で、東南海地震震源域で発生した前回の巨大地震である安政東海地震から90年ぶりに発生したものです。

 

 




 地震による被害は静岡・愛知・三重・岐阜・奈良・滋賀の各県に及び(死者・行方不明者1,223人)、静岡県では沖積平野地区における住家被害、愛知県では埋立地の軍需工場における被害、三重県では熊野灘沿岸における津波被害と、被害の様相はさまざまであったようです。

 また、この地震は戦時下(厳しい戦時局面)で発生し、軍需生産力にも大きな影響を与えたため、時の政府は当該地震に関する資料を極秘扱いとし、戦時報道管制の下、被害に関する報道は厳しく規制されました。

 

 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書(1944 東南海地震・1945 三河地震)|内閣府防災情報のページ

 

愛知県内にある昭和東海地震の記憶

 愛知県内では、昭和東南海地震で438名の死者が出ており、この地震で最も深刻な被害を被った地域が本県と云うことになります。なかでも、半田市(188人)と名古屋市南区(91人)の被害が甚大でしたが、両市区ともに「工場建屋が倒壊して1箇所で多数の死者を出してしまった」という特徴を有しています。

 半田市の中島飛行機製作所・山方工場(現・半田市役所付近)では153名の方が、名古屋市南区の三菱重工・道徳工場では64名の方が亡くなっていますが、これらはいずれも(1)軟弱地盤上に立地した、(2)耐震性能が著しく劣る建物内において、(3)避難路の確保が不十分であった、という3つの悪条件が重なった場所で起きており、人が集まる場所の耐震化や避難環境整備の重要性を物語る教訓といえます。

 

 痕跡、教訓から学ぶ(4/5頁)|中部災害アーカイブスウェブサイト(中部地域づくり協会)

 

 Map3(昭和東南海地震)/災とSeeing|名古屋大学減災連携研究センター

 

 半田市役所/見てみよう!歴史災害記録と旬のあいちvol.23|名古屋大学減災連携研究センター

 

 雁宿公園/見てみよう!歴史災害記録と旬のあいちvol.08|名古屋大学減災連携研究センター

 

 龍拈寺/見てみよう!歴史災害記録と旬のあいちvol.32|名古屋大学減災連携研究センター

 

 渥美半島の海食崖/見てみよう!歴史災害記録と旬のあいちvol.95|名古屋大学減災連携研究センター

 

半田市役所にある「東南海地震被災の地」碑(半田市東洋町)

※現在の半田市役所は、かつて昭和東南海地震で多数の犠牲者を出した中島飛行機半田製作所山方工場があった場所で、市役所西側の敷地内には「東南海地震被災の地」の碑があり、その隣には伊勢湾台風の浸水位を示す標識も設置されている。

 


雁宿公園にある「追憶の碑」と「殉難学徒の像」(半田市雁宿町)

※雁宿公園には、昭和25年の七回忌に学徒の同級生が建立した「追憶之碑」や、昭和東南海地震で犠牲となった中島飛行機半田製作所山方工場などの動員学徒97名を追憶した「殉難学徒之像」がある。

 

龍拈寺と豊橋髙等女学校動員学徒殉難之碑(豊橋市新吉町)

※豊橋市の龍拈寺には、昭和東南海地震によって犠牲となった豊橋高女23名と愛知実修高女4名の学徒(いずれも半田市の中島飛行場に動員されていた)を悼む観音像が建立されている(台座正面には「豊橋髙等女学校動員学徒殉難之碑」と記されている)。

 

苦難を乗り越えた先人たちに学ぶ

 前段で述べたとおり、終戦直後の時期は、アメリカの空襲(焼夷弾)によって焦土と化した国土を復興しなければならなかっただけでなく、大規模な地震や強烈な台風が頻発した「災害集中期」でもありましたが、当時の日本人は、こうした苦難を乗り越えて戦災復興を果たし、さらに高度成長を成し遂げました。



 従って、この時代の人々が、よく耐えてくれて、今日の日本を築いてくれたことに感謝しなければならないとともに、われわれの世代も、国土に対して働きかけを続け、将来世代に対して、より良い社会基盤(インフラストラクチャー)を引き継いでいかなければなりません。

 

 【大規模災害】第二次世界大戦の敗戦前後に自然災害が頻発?日本の驚くべき復興力とは。|大石久和のオンライン国土学ワールド

 

久屋大通り(名古屋市)



(今回の舞台)

 

 

(2023年12月17日)

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