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安政東海・南海地震の記憶<愛知の歴史災害④>

★愛知県内とりわけ渥美半島の太平洋岸には、『稲むらの火』の切っ掛けとなった安政東海地震・安政南海地震に関する史跡が遺されています。


『稲むらの火』と濱口梧陵

 <村の高台に住む庄屋の五兵衛は、長くゆったりとした地震の揺れを感じたあと、海水が沖合へ退いていくのを見て津波の来襲に気付く。祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々と火をつけた。火事と見て、消火のために高台に集まった村人たちの眼下で、津波は猛威を振るう。その様子を見た村人たちは、五兵衛の機転と犠牲的精神によって命が救われたことに気付くのであった。>

 これは、1854(安政元)年の安政南海地震津波に際しての出来事をもとにした『稲むらの火』の概要で、物語は、地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説いています。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の "A Living God " (「生き神様」として慕われている紀伊国広村(現和歌山県有田郡広川町)の濱口梧陵をモデルとした物語)を、小学校教員であった中井常蔵が翻訳・再話したもので、1937(昭和12)年から約10年間、国定国語教科書(国語読本)に採録されていました。


学校教育における「伝記」の重要性

 実在する人物の業績や生き方を素材とする「伝記」は、特に小学校高学年で男女ともに上位に支持されることが多く、児童の読書の好みに合うジャンルです。このため、学校教育における伝記教材は、戦前は「修身」という教科において、戦後は小中学校の国語教育において、生徒に生き方の一つの規範を提示する役割を果たしてきました。

 1970年代までの小学校国語教科書では、福沢諭吉、エジソン、キュリー夫人、野口英世などが複数の教科書で採録され、典型的な人物像を示していました。伝記は、文明国家の建設を志向するとともに、近代社会の実現を肯定的にとらえ、それへの寄与を重視する方向性を示していました。また、勉学、努力、利他的精神が強調されていました。そして、こうした伝記の中には、『稲むらの火』も含まれていました。


『百年後のふるさとを守る』と国土・インフラ教育

 2011(平成23)年度版の光村図書出版の小学5年生用教科書『国語 五銀河』では、『百年後のふるさとを守る』というタイトルで、防災学者の河田惠昭先生が書いた浜口儀兵衛(濱口梧陵)の伝記が掲載されていました。『百年後のふるさとを守る』では、『稲むらの火』の一部採録とともに、そのモデルとなった儀兵衛の事績が紹介されていました。

 『稲むらの火』には描かれていませんが、儀兵衛の偉業は災害に際して村民の迅速な避難に貢献したことばかりではなく、被災後も将来再び同様の災害が起こることを慮り、私財を投じて防潮堤を築造した点にもありました。これにより広川町の中心部では、昭和の東南海地震・南海地震による津波に際して被害を免れたのでした。

 「地震の多いこの国に生きるわたしたちは、儀兵衛がしたことや考えたことから、多くのことを学ぶことができる。また、学ばなければならないだろう。今も広川町では、小中学生による堤防の手入れが続けられている。夏休みも終わりかけの暑い日、子どもたちは儀兵衛に感謝し、ふるさとの安全を願って、一心に草取りにあせを流す。」で結ばれる「百年後のふるさとを守る」には、国土・インフラ教育の可能性が詰まっていました。

 ちなみに、この教科書が学校で用いられる直前の2011年3月11日、東日本大震災は発生しました。


 小中学校の国語科・道徳科で学ぶ「伝記」と「防災」(2022.10) /教科書で学ぶ「国土とインフラ」2022~23|建設マネジメント技術


 過去の災害に学ぶ(津波と稲むらの火)|内閣府防災情報のページ


 稲むらの火の館濱口梧陵記念館・津波防災教育センター|広川町


安政東海地震・安政南海地震

『稲むらの火』の切っ掛けとなった安政東海地震・安政南海地震は、幕末の嘉永7年11月4日(1854年12月23日)午前9時〜10時頃に駿河湾・遠州灘・熊野灘の海域を震源として起きた「安政東海地震」(M8.4)と、その約30時間後の嘉永7年11月5日の午後4時頃に、紀伊水道・四国南方沖の海域を震源として起きた「安政南海地震」(M8.4)のことで、1ヶ月ほど前のブログで紹介した「宝永地震」に次ぐ(江戸時代に発生した)南海トラフ巨大地震となります。




 この(これらの)地震が発生した年は嘉永7年で、当時の瓦版や記録はすべて「嘉永」表記となっているのですが、地震発生から1ヶ月以内に災異改元(天変地異や災害などの災異を理由として元号を改めること)によって元号が嘉永から「安政」に改められたことから、両地震は「安政東海地震」「安政南海地震」と呼ばれるようになりました。

 ちなみに、嘉永から安政への災異改元の時代には、1854年の「安政伊賀地震」(M7.2~7.3、死者:1,500 人余)、「安政東海地震」(M8.4、死者:南海地震とあわせて数千人)、「安政南海地震」(M8.4)、1855 年の「安政江戸地震」(M6.9~7.4、死者:1万人前後)など大地震(激甚災害)が頻発しており、これらが250年間戦争の起きることのなかった平和な時代(パスクトクガワーナ)を崩壊に追い込む大きな要因となっていったのではないかとも思えます。


 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書(1854 安政東海地震・安政南海地震)|内閣府防災情報のページ


愛知県内にある安政東海地震・安政南海地震の記憶

 安政東海地震・安政南海地震による被害は、宝永地震と同様に、愛知県内とりわけ東三河地域で大きく、渥美半島の太平洋岸では7~10mの津波があったことから、家屋の倒壊、山崩れ、漁船の流失・破壊、漁網の流失、死者・溺死者を出すなどかなりの被害があったようです。ただ、この約150年前に経験した宝永地震によって、かつて海岸近くの伊勢街道沿いに栄えていた寺院や神社、集落の多くが高台(海食崖の上)に移転していたことから、安政東海地震・安政南海地震による被害の程度は宝永地震の時に比して小さかったのではないかと思われます。

 なお、安政東海地震・安政南海地震に関する史跡としては、当時の津波の様子を再現した御厨神社の絵馬(豊橋市西七根町)や、震災が二度と起こらないことを願った「震災鎮めの石碑」(豊橋市伊古部町)などが遺されています。


 愛知県東三河地域における地震による津波の歴史|東三河地域防災協議会(事務局 豊橋市)


 痕跡、教訓から学ぶ(2/5頁)|中部災害アーカイブスウェブサイト(中部地域づくり協会)


 Map1(安政東海地震・宝永地震)/災とSeeing|名古屋大学減災連携研究センター


 御厨神社/見てみよう!歴史災害記録と旬のあいちvol.07|名古屋大学減災連携研究センター


 渥美半島の海食崖/見てみよう!歴史災害記録と旬のあいちvol.95|名古屋大学減災連携研究センター


 伊古部海岸/見てみよう!歴史災害記録と旬のあいちvol.86|名古屋大学減災連携研究センター


 伊良湖岬/見てみよう!歴史災害記録と旬のあいちvol.68|名古屋大学減災連携研究センター



御厨神社と安政東海地震後に奉納された絵馬(豊橋市西七根町)

※御厨神社の境内には絵馬の写真が掲示してあり、その下には絵馬の右上に書かれた文章が紹介されている。それによれば、安政東海地震の津波によって表浜の漁船はことごとく流され、壊されたが、唯一彦坂与六郎の持ち船2隻だけは御厨神社の裏山に打ち上げられて助かった。この有難さを子々孫々にまで伝えるべく、助かった船の板にその時の様子を描いて額とし、御厨神社に奉納したという。なお、絵馬が奉納された年は安政東海地震から13年後の慶応3年(1867年)となっているが、これは、御厨神社の高台移転(現在地への再建)に13年かかったためとのことである(安政東海地震当時の御厨神社は海岸近くにあって津波の被害を受けた)。


表浜海岸(豊橋市)

※表浜海岸は、NHK連続テレビ小説「エール」の撮影にも使われた風光明媚な海岸であるが、砂浜のすぐ背後には、渥美半島の特徴でもある高い海食崖が迫っており、この海食崖に、安政東海地震で崩落した跡が残されている。


伊古部西海岸にある『震災、鎮めの石碑』(豊橋市伊古部町)

※「ささゆりの里」の高い崖地上に建立された「震災鎮めの石碑」の案内板には、「この石碑は安政6年に網元の仙太郎さんが震災が二度と起きない事を願って建てました」、「「安政元年(1854年)11月4日午前9時頃と、5日午前5時頃続けて2度にわたり起きたマグニチュード8.4と言われる大震災により伊古部村の大羽根山が800メートル海中へ押し出され一つの島となった。漁労に使う舟、網とも高波に残らず引かれた。家屋の倒壊、流出甚大なり」と古文書に記されている」、「この地震は「大津波をともなっており、言い伝えでは推定29mの高台まで海水が上がった」とのことである」と記されている。


伊良湖岬灯台(田原市伊良湖町)

※伊良湖岬にある灯台の周辺には、過去の巨大地震津波で運ばれたと考えられる津波石が存在する。


(今回の舞台)



(2023年11月05日)

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