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尾張地方に残る鎌倉街道の面影<尾張国土学③>

★中世の東海道は、尾張では玉ノ井/黒田(一宮市)・折戸(稲沢市下津)・萱津(あま市)・熱田(名古屋市熱田区)・鳴海(名古屋市緑区)・沓掛(豊明市)を通っていたと考えられています。

 

わが国の道路の歴史(古代~中世)

 前回のブログ(尾張国府と古代の東海道<尾張国土学②>)において、古代の道路「七道駅路(古代官道)」は、ハイスペックな規格(①目的地を最短距離で結ぶため可能な限り直線的に造られていた、②約16kmごとに駅家が設けられていた、③道路幅員は 12mにも及んだ)で、現代の高速道路と数多くの共通点を有していたと書きましたが、律令国家の衰退に伴い古代官道の多くは廃絶して、そのほとんどが使われなくなりました。

 その後、鎌倉幕府は、鎌倉と京都を結ぶ東海道ルートの整備や、諸国の御家人が鎌倉に馳せ参じる道の整備を行いましたが(これらの道路は総じて「鎌倉街道」と呼ばれている)、古代官道に比べるとネットワーク性能や構造スペックは総じて低く、鎌倉幕府滅亡後は、室町・戦国時代に強大な政権が現れなかったこともあって、日本の道路システムは長期にわたって機能しなくなります。⇒本格的な交通政策(全国的な幹線道路ネットワーク整備)は、徳川家康による「五街道」の整備を待つことになります。

 

 道路関係史年表/道の歴史|国土交通省

 

 鎌倉時代の道路政策/中世の道/道の歴史|国土交通省

 

 室町~戦国時代の道路/中世の道/道の歴史|国土交通省

 

尾張地方の鎌倉街道(中世東海道、京・鎌倉往還)

 鎌倉街道のうち、鎌倉から京都に向かうルートは、一般的に「東海道」と呼ばれたり、また「京・鎌倉往還」と呼ばれることもあります。

 古代(延喜式)の東海道は、伊勢国の榎撫駅(現在の三重県桑名市多度町香取)から尾張国の馬津駅(現在の愛西市町方町松川)までは木曽三川の河口部を海路で横断し、そこから新溝駅(現在の名古屋市中川区露橋町)及び両村駅(現在の豊明市沓掛町上高根)を経由して三河国に繋がっていましたが、今回紹介する尾張地方の鎌倉街道(中世東海道、京・鎌倉往還)は、古代(延喜式)東海道とは異なるルートを通っていたようです。

 各種文献等(※)によると、京・鎌倉往還のルートは、京都から近江に出て古代東山道を通って不破関(関ヶ原)越えで美濃に入り、青墓(大垣市)・墨俣を経由して長良川を渡る「美濃廻りルート」であったようで、尾張では玉ノ井/黒田(一宮市)・折戸(稲沢市下津)・萱津(あま市)・熱田(名古屋市熱田区)・鳴海(名古屋市緑区)・沓掛(豊明市)を通っていたと考えられていますが、数世紀にわたる時間の流れの中で、現在、その痕跡をはっきりと確認することは難しくなっています。

 なお、三河に入ってからの京・鎌倉往還ルートについては、過去のブログ(三河地方に残る鎌倉街道の面影<三河国土学⑦>)にて取り上げていますので、こちらも参照ください。

 

(※)①河合幸男著、『鎌倉街道(京鎌倉往還)』、鎌倉街道(京鎌倉往還)研究会、2022年、②池田誠一著、『なごやの鎌倉街道をさがす』、風媒社、2012年、③尾藤卓男著、『平安鎌倉古道』、愛知県郷土資料刊行会(中日出版社)、1997年 ほか

 

 ちなみに②では、鎌倉街道のことが次のように紹介されています。



  時を旅する 愛知の街道|愛知県

 

 鎌倉街道周辺遺跡 地元説明会資料|愛知県埋蔵文化財センター

 

 鎌倉街道周辺遺跡|愛知県埋蔵文化財センター

 

 鎌倉街道とは/緑区歴史散策マップ|名古屋市

 

 萱津から墨俣間の平安・鎌倉街道|更級日記紀行

 

 名古屋市内の平安・鎌倉街道|更級日記紀行

 

 二村から熱田に向かう平安・鎌倉街道|更級日記紀行

 

 海路を使ったもう一つの鎌倉時代・東海道をたどる『海道記』|更級日記紀行

 (※鎌倉時代には古代(延喜式)東海道とほぼ同じルートを通る街道も復活していた)




真清田神社(一宮市真清田)

※尾張国一宮。神社の近くを鎌倉街道が通り、多くの人が立ち寄った。


住吉神社と鎌倉街道趾碑(稲沢市下津住吉町)

※碑文『この地は古く折戸の宿といって鎌倉街道が通り交通の要路を占めて戦国時代には下津城も築かれていたが、西方に岐阜街道が整備されるとともに街道も移転して、街道としての機能を果たさなくなった。昭和五十八年八月 稲沢市教育委員会』


萱津神社と鎌倉街道跡(あま市上萱津)

※神社の前を鎌倉街道が通っていた(萱津は古代官道と鎌倉街道との合流点だった)。



古渡稲荷神社と鎌倉街道案内板(名古屋市中区正木)

※案内板文『鎌倉街道は京都と鎌倉を結ぶもので、別名「小栗街道」ともいわれ、「十六夜日記」や「東関紀行」などの紀行文で知られている。その道筋は「尾張徇行記」によれば、萱津宿から庄内川を渡り、東宿から上中、米野露橋、古渡地内に出、稲荷祠と犬見堂の間を経てその先、大喜、高田へは舟で渡り、井戸田、古鳴海へ抜けるという。今では名古屋市の都市化にともなって、局部的に残っているに過ぎない。名古屋市教育委員会』


熱田神宮と源頼朝生誕地・誓願寺(名古屋市熱田区)

※熱田神宮:勅祭社。尾張国三宮。神宮の近くを鎌倉街道が通り、多くの人が立ち寄った。なお、熱田から鳴海(古鳴海)に向かうには鳴海潟という潟を渡る必要があり、鎌倉街道とは言え、干潮時にしか通れなかった。

※誓願寺:鎌倉幕府を開いた源頼朝の母は熱田神宮大宮司の娘であり、宮司の館があった現在の誓願寺付近が頼朝の出生地とする説がある。



野並八劔社(名古屋市天白区野並)

※旧鎌倉街道(上野道)沿いに鎮座し、古くから地域の安全、国家の安寧を見守ってきた神社。


二村山鎌倉街道(豊明市沓掛町) 

※二村山の山頂近くにある地蔵堂の北西から濁池に向かって下る山道は、比較的良く往時の鎌倉街道の面影を残している。


源頼朝歌碑(豊明市沓掛町)

※標高71.8mの二村山は歌枕として詠まれた景勝地で、古来より街道を行き交う人々を魅了し、源頼朝をはじめ、北条泰時、西行などすぐれた歌人の詠んだ和歌が数多く残されている。


(今回の舞台)

 

 

(2024年03月10日)

 




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