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小学校の郷土学習教材「飯沼干拓」

★郷土学習は、近現代社会の実現を肯定的に捉えるとともに、努力や利他的精神を養いながら、先人たちの郷土への働きかけとその成果(功績)を学ぶ単元。「飯沼干拓」の物語は、国土・インフラ教育にとって格好の教材といえます。


 現在、私たちが享受している安全で快適な生活は、先人たちが森林や田畑、鉄道や道路を整備し、川を治め、水資源を開発するなど、絶え間なく国土に働きかけを行うことによって、国土から恵みを返してもらってきた歴史の賜物です。

 従って、現代に生きる私たちの世代も、国土に対して働きかけを続け、将来世代に対して、より良い社会基盤(インフラストラクチャー)を引き継いでいかなければなりません。


小学校社会科教科書と郷土学習

 小学校、中学校、高等学校では、文部科学省が告示する教育課程の基準「学習指導要領」に基づき、また、検定を合格した社会科教科書を通して、国土やインフラについて学ぶ機会が提供されています。

 例えば、「郷土学習」の単元。現行の小学校学習指導要領(平成29年告示)では、第4学年の社会科において、地域の発展に尽くした先人が、様々な苦心や努力により当時の生活の向上に貢献したことを理解するとともに、当時の世の中の課題や人々の願いなどに着目して,地域の発展に尽くした先人の具体的事例を捉え、先人の働きを考え、表現できるようになることが求められています。また、検定済教科書(採択率が最も高い東京書籍の教科書。令和2年度版)では、「谷に囲まれた台地に水を引く」というタイトルに18頁が割かれており、布田保之助と通潤橋の物語(江戸時代後期、水に乏しい不毛の大地、熊本県の白糸台地に、時の惣庄屋・布田保之助がさまざまな苦心や工夫を重ねて水路石橋「通潤橋」を架け、山から水を引くことで、白糸台地には水田が広がり,人々の生活は向上し、地域が発展してきたというノンフィクション)が採録されています。

 この郷土学習の単元は、戦後の小学校の学習指導要領が、一貫して、生徒の学習能力が高まった小学4年生の社会科において取り上げてきた学習プログラムであり、日本人の国土・インフラ教育に大きな効果を上げてきました。

 しかし、私が学んだ昭和45年検定教科書では、「開発のむかしといま」という単元において、46頁もの分量が割かれ、なおかつ「相模原台地の新田開発・ダム」、「箱根用水」、「高浜山の砂防林(出雲市)」、「天竜川の堤防」、「八郎潟の干拓」、高速道路、観光道路、住宅用地、水道等々の社会資本の計画・整備が取り上げられ、幅広くインフラの歴史と先人達の努力・功績が記述されていました。

 また、当時の教科書では、「交通の発達」という単元を別に起こして、江戸時代以降の交通の歴史(道路、水運)、鉄道整備の歴史と鉄道網、鉄道をしく苦心(トンネル、橋梁)、交通の発達と産業への影響等について、更に46頁もの分量を割いて、記述していました。つまり、現在の小学4年生とほぼ半世紀前の小学4年生(私の世代)とでは、圧倒的に国土(郷土)への働きかけに関する学習量が違うのであり、このことには留意することが必要です。


 『国土教育』の視点から見た社会科教科書の検証と次世代教育論(JICE REPORT vol.16)↓


 布田保之助と通潤橋の物語(熊本国土学/第44回)↓


飯沼干拓の歴史(先人たちの郷土への働きかけの成果)

 現在の茨城県坂東市、常総市、古河市、八千代町の三市一町にまたがる広大な水田は、「飯沼新田」と称されており、江戸時代の享保年間に開発されたものです。

 1724年(享保9年)、地元村々の開発願いに対する幕府の許可が下り、巨大な沼地であった飯沼を干拓する大規模な新田開発がスタートしました。

まず始めに手がけられたのは、飯沼の水を利根川に流すことでした。このため、飯沼の下部から利根川まで土地を掘り下げ、人工河川「飯沼川」がつくられました。この飯沼川は、飯沼の排水を促進するため、さらに上流にまでつなげられました(飯沼の中央を南北に流れる川がつくられ、これを含めて飯沼川となりました)。

 その次は、飯沼に流れ込んでいた川を沼の東西で2つの川に分けることでした。飯沼の西側には西仁連川、東側には東仁連川がつくられ、新田に水を入れるための川となりました。

 このように人工的に川をつくり飯沼の水を利根川や鬼怒川に流すことによって31新田が成立し、飯沼は一大穀倉地帯に生まれ変わりました。この付近には「勘助新田」「幸田新田」など「新田」と名のつく地名がたくさんありますが、そのほとんどが江戸時代の新田開発のなごりです。

 こうして、広大な水田が出来上がった飯沼地域ですが、1783年(天明3年)の浅間山の大噴火の影響で利根川流域一帯に火山灰が厚くつもり、川底が浅くなってしまったことで飯沼新田の排水がうまく進まなくなり,大雨の度に洪水にみまわれることとなりました。1783年からの50年間で24回もの洪水があったという記録が残されています。

 その後、飯沼廻りの村々を治めた幕府の代官・岸本武太夫・武八父子によって、飯沼新田は復興されましたが、構造的な排水不良や利根川の河床上昇による逆水の流入は如何ともしがたく、大雨時の水害は絶えることはありませんでした。以後、水との戦いは、近現代の最新技術導入によって排水問題を解決するまで300年の長きに亘りました。

 現在の飯沼新田は、さまざまな改良事業・耕地整理が行われたことにより、近代的で実り豊かな水田地帯となっています。


 飯沼新田物語(坂東市)↓


 沓掛香取神社(茨城県神社庁)↓


 飯沼川周辺の自然を調べよう(茨城県自然博物館)↓


茨城県の小学校社会科副教材「飯沼干拓」

 この飯沼干拓の物語(ノンフィクション)は、茨城県の小学校社会科の郷土学習の素材として、長年用いられてきました。例えば、1992年(平成4年)発行の小学校4・5・6年社会科副読本『新版 わたしたちの茨城県』(著作:茨城県教育研究会社会科教育研究部、発行:ひばり出版)では、「新しい田をひらいた飯沼かんたく」というタイトルで、干拓工事の年表、飯沼の今昔地図比較、工事の概要とその様子(想像図)、工事に使われた道具が紹介されているとともに、「飯沼かんたくのようすを紙しばいにつくってみましょう。」という見開きのページでは、以下のストーリーに沿って紙芝居(飯沼干拓の歴史と先人たちの苦労、その成果)がわかりやすく紹介されています。


①大きな沼

 今からおよそ270年ほど前、利根川と鬼怒川にはさまれた台地にたくさんの沼がありました。なかでも飯沼は、とても大きな沼でした。

②人びとのくらし

 沼のまわりには24の村がありました。村の人びとは、わずかな田畑をたがやしながら、魚や貝をとって、くらしていました。しかし、雨がふるとこう水になり、米がとれなくなってしまいます。

③人びとの願い

 人びとは、この沼を田にできないものかと願っていました。そこで1722年、名主の左平太たちが江戸に行って新しい田をつくることを奉行所にお願いしました。

④そくりょうのようす

 村の人たちが熱心にお願いしたので、1723年、奉行所の役人が沼を調べに来ました。当時のそくりょうは、竹のさおを何本も立て、なわを使ってはかったそうです。このそくりょうをもとに新しい田を作る計画をたてました。

⑤かたいちかい

 沼の水は、堀をほって利根川へ流すことに決まりました。人びとは、工事の無事をいのり香取神社におまいりしました。また、血判状を作り力を合わせることをちかいました。

⑥新しい田

 工事は、1725年1月10日に始められました。そのころは、とうぐわやまんのうで土をほり、もっこで運びました。新堀の完成により、沼の水を流すことができました。こうして、新しい田ができました。

⑦続くこう水

 しかし、ようやくできた田も大雨がふると田が水にうまってしまいました。そこで、水を流れやすくするために、新しく飯沼川をほりました。さらに、沼のりょうがわに東仁連川・西仁連川がほられました。

⑧ついに完成

 広い沼も長い年月をかけ、多くの人びとがあせとどろまみれになって働いたために、新しい田をつくることができました。村の人びとは、これで米のごはんがはらいっぱい食べられると喜びました。


 郷土学習は、近現代社会の実現を肯定的に捉えるとともに、努力や利他的精神を養いながら、先人たちの郷土への働きかけとその成果(功績)を学ぶ単元。「飯沼干拓」の物語は、国土・インフラ教育にとって格好の教材といえます。


 飯沼干拓/学習の成果(1)↓


 飯沼干拓/学習の成果(2)↓


 飯沼干拓/学習の成果(3)↓



飯沼干拓の位置


飯沼干拓の範囲


飯沼新田の風景(坂東市)


干拓完成を祝って造立されたといわれる沓掛香取神社(坂東市)


飯沼新田の風景と物語(坂東市HPより)


飯沼かんたく①(『新版 わたしたちの茨城県』より)


飯沼かんたく②(『新版 わたしたちの茨城県』より)


(今回の舞台)


(2022年2月27日)

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