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布田保之助と通潤橋の物語

★伝記は、文明国家の建設を志向するとともに、近代社会の実現を肯定的に捉え、それへの寄与を重要視する。また、勉学、努力、利他的精神を強調してもいる。『布田保之助と通潤橋』の物語は、国土・インフラ教育にとって格好の教材だ。

【第百九十二回国会における安倍内閣総理大臣所信表明演説】  2016年(平成28年)8月3日に発足した第3次安倍第2次改造内閣が迎えた最初の国会「第百九十二回国会」では、政府・与党提出による大規模な補正予算(平成28年度第2次補正予算)が成立、熊本地震災害復旧・復興関係予算も大幅に認められた。  本国会の冒頭にあった安倍内閣総理大臣所信表明演説は、「布田保之助と通潤橋」を題材にした物語で締めくくられている。 (未来への架け橋)  橋を架ける。熊本の白糸台地は、江戸時代、水に乏しい不毛の大地でした。この困難の中に、布田保之助は、希望を見出しました。水路橋を架け、山から水を引く。高さ二十メートルもの石橋は当時存在しませんでした。三十億円を超える費用を捻出しなければならない。高い水圧、大雨、想定外の事態に何度も失敗しました。それでも、保之助は、決して諦めませんでした。三十年以上にわたる挑戦の末に、「通潤橋」を完成させました。熊本地震で一部損壊したものの、今でも現役。百五十年にわたり白糸台地を潤し、豊かな実りをもたらしてきた。まさに「未来への架け橋」となりました。  少子高齢化、不透明感を増す世界経済、複雑化する国際情勢、厳しい安保環境。我が国は、今も、様々な困難に直面しています。私たちに求められていることは、悲観することでも、評論することでも、ましてや、批判に明け暮れることでもありません。建設的な議論を行い、先送りすることなく、「結果」を出す。私たちは、国民の代表として、その負託にしっかりと応えていこうではありませんか。憲法はどうあるべきか。日本が、これから、どういう国を目指すのか。それを決めるのは政府ではありません。国民です。そして、その案を国民に提示するのは、私たち国会議員の責任であります。与野党の立場を超え、憲法審査会での議論を深めていこうではありませんか。  決して思考停止に陥ってはなりません。互いに知恵を出し合い、共に「未来」への橋を架けようではありませんか。御清聴ありがとうございました。」(平成28年9月26日、安倍内閣総理大臣所信表明演説から)

 第百九十二回国会における安倍内閣総理大臣所信表明演説 http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement2/20160926shoshinhyomei.html

【布田保之助と通潤橋】  通潤橋は、水の便が悪く水不足に悩んでいた白糸台地(現・熊本県上益城郡山都町)に住む民衆を救うため、江戸時代後期、時の惣庄屋・布田保之助が、”肥後の石工”たちの持つ技術を用いて建設した石橋。日本最大級の石造アーチ水路橋で、国の重要文化財に指定されている。  「通潤橋のある山都町は、清らかな水と寒暖の差が激しい気候によって、良質な農作物が育つことで知られる。しかし、実は江戸時代までは、水不足に悩まされる不毛の大地だった。  中でも深刻だったのは、阿蘇南外輪山の裾野の一角に南北約5キロ、東西約3キロに渡って広がる白糸台地。阿蘇の火砕流堆積物から作られた地質が侵食されることでできた白糸台地は、四方を笹原川、千滝川、緑川、五老ヶ滝川に囲まれている。それにもかかわらず、浸食作用による深い谷に阻まれて川の水が利用できず、民衆は飲料水にも事欠き、荒れた土地が深刻な貧困を招いていた。  江戸時代末期、そんな窮状を見かねて、地元の民を救おうと通潤橋の建設に立ち上がったのが、時の惣庄屋・布田保之助(ふたやすのすけ)だった。保之助は38年間の在職中、道路や橋の新設から、用水路の延長、産業振興まで、多大な功績を残している。彼の最後の大仕事となったのが、前代未聞の通水橋「通潤橋」の建設だった。  従来にない技術を要する橋の建設は、困難を極めた。熊本城の石垣の頑強な石積技術にヒントを得た保之助は、全国にその名を轟かせていた八代郡種山手永(現・八代市東陽町)の石工集団「種山石工(たねやまいしく)」に協力を依頼。苦心の末、通常よりはるかに頑丈な石橋を造り上げて、継ぎ目に特殊なしっくいを塗った凝灰岩製の通水管を3本通し、崩壊や漏水を防ぐことに成功した。  こうして安政元年(1854)、全長75.6メートル、高さ20.2メートルの巨大な石造アーチの水路橋・通潤橋が完成。約6キロ離れた笹原川から通潤橋を経て、深い谷が立ちはだかる白糸台地に農業用水が供給されるようになった。その後、白糸台地では大規模な新田開発により棚田が造成され、人々の暮らしは豊かになっていった。」(通潤橋 豪快な“放水する石橋”の魅力とは(たびらい熊本)から)

 通潤橋 豪快な“放水する石橋”の魅力とは(たびらい熊本)↓ http://www.tabirai.net/sightseeing/tatsujin/0000475.aspx

シリーズ熊本偉人伝vol.17「布田保之助」(熊本観光情報サイト「旅ムック」)↓ http://tabimook.com/kuma/futa_yasunosuke/index.html

「布田神社」(神社探訪・狛犬見聞録)↓ http://www.komainu.org/kumamoto/kamimasuki_yamato/futa/futa.html

(通潤橋:2016年1月)

(熊本市万日山にある布田保之助の墓)

【伝記で学ぶ「国土とインフラ」】  実在人物の業績や生き方を素材とする「伝記」は、子どもの読書の好みに合うジャンルだ。このため、戦前は「修身」、戦後は小中学校の国語科で、伝記は生徒に生き方の一つの規範を示す役割を果たしてきた。  伝記は、文明国家の建設を志向するとともに、近代社会の実現を肯定的に捉え、それへの寄与を重要視する。また、勉学、努力、利他的精神を強調してもいる。国土・インフラ教育にとって格好の教材だ。  昭和16年の小学校の「修身」の教科書には、「公益」というカテゴリーの中で、『布田保之助と通潤橋』が採録されていた。  また、昭和49年度~平成元年度版の小学校4年「国語」教科書(教育出版)にも、『谷間にかかったにじの橋』(今西祐行(著))というタイトルで、布田保之助と通潤橋の物語が採録されていた。  そして現在、本県(熊本県)では、道徳教育用郷土資料『熊本の心』において、『布田保之助の心』が採録されている。

【初等科修身三(昭和16年)から】 『布田保之助と通潤橋』  熊本の町から東南十数里、緑川の流れに沿うて、白糸村(しろいとむら)というところがあります。  あたり一面、高地になっていて、緑川の水は、この村よりずっと低いところを流れています。白糸村は、このように川に取り囲まれながら、しかも川から水が引けないところです。  それで昔は水田が開けず、畠の作物はできず、飲み水にも困るくらいでした。村人たちは、よその村々の田が、緑の波をうつのを眺めるにつけ、豊かに実って金色の波が打つのをみるにつけ、どんなにかうらやましく思ったでしょう。  今からおよそ百年ほど前、この地方の総庄屋に布田保之助(ふたやすのすけ)という人がありました。  保之助は村々のために道路を開き、橋をかけて交通の便をし、堰を設けて水利をはかり、大いに力を尽くしましたが、白糸村の水利だけはどうすることもできないので、村人たちと一緒に、水のとぼしいことを、ただ嘆くばかりでした。  いろいろ考えたあげくに、保之助は、深い谷を隔てた向こうの村が、白糸村よりも高く、水も十分にあるので、その水をどうかして引いてみよう、と思いつきました。  しかし、小さなかけいの水ならともかくとして、田をうるおすほどのたくさんの水を引くのは、なまやさしいことではありません。  保之助は、まず木で水道をつくってみました。ところが、水道は激しい水の力で、ひとたまりもなく壊され、堅い木材が深い谷底へばらならになって落ちてしまいました。  けれども、一度や二度のしくじりで、志のくじけるような保之助ではありません。今度は、石で水道をつくろうと思って、いろいろ実験してみました。  水道にする石の大きさや、水道の勾配を考えて、水の力のかかり方や、吹きあげ方など詳しく調べました。とりわけ、石の継ぎ目から、一滴も水を漏らさないようにする工夫には一番苦心しました。  そうして、やっと、これならばという見込みがついたので、まず谷に高い石橋をかけ、その上に石の水道をもうける計画を立てて、藩に願い出ました。 藩の方から許しがあったので、一年八カ月を費やして、大きなめがね橋をかけました。高さが十間余り、幅が三間半、全長四十間。そうして、この橋の上には、三すじの石の水道がつくってありました。 始めて水を通すという日のことです。保之助は、礼服をつけ、短刀を懐にして、その式に出かけました。万が一にも、この工事がしくじりに終わったら、申し訳のため、その場を去らず、腹かき切る覚悟だったのです。  工事を見届けるために来た藩の役人も、集まった村人たちも、他村からの見物人も、保之助の真剣なようすを見て、思わずえりを正しました。  足場が取り払われました。しかし、石橋は、びくともしません。やがて水門が開かれました。水は、勢い込んで長い石の水道を流れてきましたが、石橋はその水勢に耐え、相変わらず谷の上に高くどっしりとかかっていました。  望みどおりに、水がこちらの村へ流れ込んだのです。 「わあ」という喜びの声が上がりました。  保之助は、永い間、苦心に苦心を重ねた難工事ができ上がったのを見て、ただ涙を流して喜びました。そうして、水門をほとばしり出る水を手に汲んで、おしいただいて飲みました。  まもなく、この村にも、水田の開ける時が来て、百町歩(ぶ)ほどにもなりました。しだいに村は豊かになり、住む人は増えて、藩も大いに収益を増すようになりました。  橋の名は通潤橋(つうじゅんきょう)と名付けられ、今もなお深い谷間に虹のような姿を横たえて、一村の生命を支える柱となっています。

【道徳教育用郷土資料『熊本の心』から】 『布田保之助の心』-小学校3・4年-  「江戸時代の終わりごろのことです。矢部郷(今の山都町)の惣庄屋、布田保之助は、道路や用水路などをつくリ、村人の生活をよくすることにカを入れていました。しかし、深い谷に囲まれた白糸台地で、水にこまっている村人の生活はどうすることもできませんでした。(どうにかして南手に水を送りたい。)と保之助は思い、いろいろな所に出かけて、その方法を調べました。そして、”水を送る方法は、砥用(今の美里町)にある雄亀滝橋のように、水路のある石橋を深い谷にかける以外にない。”と考え、川の水を水路で送る仕組みを研究しました。その中で、何か手がかりを見つけると、実際につくって試してみましたが、なかなか思うようにいかず、失敗が続きました。 「何を考えているのだ。この深い谷をこえて水を送ることなんか、できるもんか。」 と言う村人もいましたが、保之助はくじけず、さらに工夫を続け、とうとう川の水を水路で送る仕組みを作り上げました。そして、石橋をかけるために種山石工たちに相談をしました。石工たちは、保之助の気持ちに心を動かされ、協力をすることにしました。さらに、保之助は、石橋づくりのゆるしをもらうために、くわしい計画書を作って、熊本はんに何回もお願いに行きました。  熊本はんからゆるしが出ると、保之助は、毎日、仕事場に顔を出して、 「南手のためだ。しっかりやってくれよ。」 とみんなに声をかけました。おおぜいの村人たちは、石切り場で切り出された石をもくもくと谷に運びました。谷では、石工たちがその石を橋の木わくの上に積み上げていきました。また、村人たちは用水路づくりも行いました。毎日、大変な作業が続きましたが、みんなは、心をひとつにして、朝早くから夕方おそくまで、一生けんめい働きました。こうして、一年八か月という時聞をかけて、水路のある石橋がつくり上げられました。  いよいよ、水を送ることができるかどうかをたしかめる日をむかえました。保之助の合図で、水の取り入れロが開かれました。「ごぼっ、ごぼごぼっ」と、水がうずをまいて石橋の中にすいこまれました。石橋の中を流れる水の音は聞こえますが、水はなかなか出てきません。集まっている人たちは、だんだん不安になってきました。その時です。 「きたっ、水がきた。水がふき上げたぞ。」 大きなかん声が聞こえ、みんなからわきおこった喜びの声とはく手が谷間にひびきわたりました。流れ出た水を両手ですくって飲んだ保之助のほおは、涙にぬれて光っていました。  こうして、水にこまらなくなった白糸台地では、村人たちが用水路をつくり、新しい田んぼをたくさん開きました。田んぼの広さは前とくらべて約百倍になり、秋には、たくさんのいなほが実って、村人の生活は楽になっていきました。村人たちは、保之助が村を通ると聞くと、家の中にいる者も外に出てきて、ていねいにおじぎをして感しゃの気持ちをあらわしました。  村人の生活を思い続ける保之助の心は、水路のある石橋をつくりあげ、やせ地だった白糸台地だけでなく、人びとの心もうるおしたのでした。この石橋は、のちに、通潤橋という名前がつけられました。  その後、白糸台地の人びとは、通潤橋と共に用水路や水を大切に守リ続けてきました。今でも毎年、八さくの朝には、田んぼの水の取り入れ口に酒をそなえ、感しゃのいのりをささげる習かんが残っています。」

(道徳教育用郷土資料『熊本の心』から)

 山都町の八朔祭は、宝暦8年(1758年)に矢部郷の不作を心配した細川藩が、矢部手永の庄屋に命じて豊作祈願を行ったのが始まりと言われており、その歴史は通潤橋よりも古く約250年前から町民によって代々受け継がれてきたものである。

 八朔祭/ふるさと寺子屋(熊本県観光サイト)↓

【熊本地震からの復旧・復興】 平成28年熊本地震では、日向往還が通る熊本県央地域一帯の道路や農地、文化財なども大きな被害を受けた。「通潤橋」も例外ではなく、橋上にある通水石管の継目から著しい漏水が生じ(橋梁本体部)、さらに周辺部でも水路法面の崩落等が生じているため、通潤橋の本格的な復旧工事に着手できるのは、現時点で平成29年度以降とされている。  通潤橋の建設に尽力した惣庄屋・布田保之助を祀る「布田神社」も被災し、鳥居が崩れ、石碑や玉垣が倒壊するなど、無残な姿のままだ。

(熊本地震により被災した通潤橋)

(熊本地震により被災した布田神社)

(熊本地震により被災した布田神社)

 平成29年1月23日に山都町のホームページにアップされた「山都町復興計画」(平成28年12月22日策定)によると、通潤橋の復旧は、平成30年度完了を目途に進められるとのこと(32ページのNo.76を参照)。計画に基づく早期復旧を期待したい。

(今回の舞台)

(2017年2月18日)

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