名古屋の発展と堀川の歴史<尾張国土学⑮>
★近世から近代にかけて、名古屋市の中心部を南北に貫く堀川は、地域の経済発展を担う物流幹線として重要な役割を果たしてきました。
堀川フラワーフェスティバル2024
2024年5月10日(金)~25日(土)の間、名古屋市中心部の堀川にかかる納屋橋周辺で、「堀川フラワーフェスティバル2024」が開催されました。
堀川フラワーフェスティバルとは、市民作成のフラワーハンギングバスケットを堀川沿いに飾り、かつて桃や桜が咲き誇り花見の名所であった「堀川」を甦らせ、華のある憩いの時空間を創るイベントです。市民に堀川の歴史に触れ、水辺の美化意識を高めてもらおうと、市民団体や商店街などで作る実行委員会が主催しており、今回で18回目となります。
イベント期間中の土日は、イタリアで作られたゴンドラに乗船できたり、納屋橋の歴史に関するガイド付きクルーズ船に乗船できたりと、近代以前の大都市・名古屋の水上交通の要であった堀川の役割を垣間見ることも出来ました。
名古屋 堀川フラワーフェスティバル2024
堀川フラワーフェスティバル2024(名古屋市中区)
堀川とは/徳川家康の命による堀川の開削
堀川(一級河川庄内川水系)は名古屋市の中心部を南北に貫く河川で、庄内川より分かれ、矢田川を暗渠で横断し、名古屋城の西から市の中心部である納屋橋地区を通り、熱田台地の西に沿って南下し、名古屋港へ注ぐ延長16.2kmの河川です。
名古屋城築城と同時に、徳川家康の命により福島正則を総奉行として開削された水路(延長:約6km)を起源とし、江戸時代を通して、堀川は、熱田湊から城下町への生活物資の運搬水路として(当時の名古屋の経済発展を担う物流幹線として)、重要な役割を果たしてきました。米や塩、木材など多くの物資が船によって城下へ運ばれ、沿川には、大規模な藩の蔵、水軍関係者の屋敷、御船蔵、貯木場などが設けられていました。乗合船も運行され、人々の交通手段としても堀川が使われていました。そして、熱田湊の近くには、東海道最大の宿場町「宮宿」があり、次の宿場町「桑名宿」までは七里の渡し(海路)で結ばれていました。
堀川|名古屋市
堀川の歴史|名古屋市
堀川の流れと沿川に建つ福島正則の銅像(名古屋市中区栄「納屋橋ゆめ広場」内)
堀川の流路の変遷/犬山と名古屋を結ぶ舟運の確立
1610年(慶長15年)に開削された当時の堀川は、名古屋城西の幅下から熱田まで長さ1里半余り(約6km)、幅12間から48間(約22メートルから87メートル)の水路でしかありませんでしたが、1663年(寛文3年)に名古屋城のお堀に水を引く御用水が開削されたことで、水源のなかった堀川に、お堀を経由して庄内川の水が流入するようになりました。また、1784年(天明4年)には、治水上の観点から別の河川(=大幸川)の流路を変更して堀川へつなぐ工事が行われたことで、大幸川の水も堀川に流入するようになりました。
そして近代。犬山と名古屋を結ぶ舟運と農業用水の取水を目的として、1877年(明治10年)に黒川が開削され、1883年(明治16年)には新木津用水も改修されました。これらによって、従来は、木曽川経由で7日かかって輸送されていたのがわずか4時間に短縮され、1886年(明治19年)から1924年(大正13年)までは、愛船株式会社による運送事業が行われることになりました。
なお、黒川の開削は、現在の庄内川水分橋(守山区)の所に元杁樋門を設けて取水し、南西方向へ新しい水路を掘り進めるとともに、矢田川の下を伏越(水路トンネル)でくぐって南側へ出て、さらに南西方向へと水路を造り、現在の猿投橋(北区)のところで大幸川へ接続、そこから南(下流)は大幸川を改修して流路を付け替えることで実現しました。ちなみに、黒川は、愛知県土木課の技師・黒川治愿の設計によるもので、その功労者の姓を河川名にしたといわれています。
こうした経緯を経て、現在の一級河川庄内川水系・堀川は形成されており、一般的に河口~朝日橋までが「堀川」、朝日橋から黒川樋門までが「黒川」、黒川樋門~庄内用水元杁樋門までが「庄内用水」と呼ばれているようです(通称)。
堀川の変遷|名古屋市
犬山から名古屋へ 黒川開削と舟運|名古屋歴史ワンダーランド
黒川樋門|名古屋市
庄内川元杁樋門(名古屋市守山区瀬古味鋺前)
黒川樋門と天然プールの碑(名古屋市北区辻町)
※黒川樋門は、矢田川の地下にトンネル(伏越)を掘り庄内用水から分岐して黒川(堀川)へ水を入れるための水量調整用の水門として設けられた。明治末には石造りの樋門に改修されたが、昭和53年に取り壊されその後現在の形に復元されている。
御用水跡街園(名古屋市北区辻町)
※御用水は廃止され、現在は、その流域の一部が遊歩道を主体とした街園として整備され、市民から親しまれている。
埋立てによる下流部の延伸/中川運河との接続
下流部では、江戸時代の新田開発や、明治以降の名古屋港築造、工業用地造成のために埋立てが行われ、これに伴って堀川も延伸されています(結果、上流部とあわせて、現在の16.2kmの姿になりました)。
また、1932年(昭和7年)に中川運河と堀川とがつながったことで、松重閘門を通して、水位が違う両河川(運河)を行き来できるようになりました。これにより堀川中下流部の舟運の混雑が緩和されましたが、トラック輸送の発達とともに利用が減り、1968年(昭和43年)を最後に閘門は閉鎖されました。なお、松重閘門は現在、名古屋の発展を記念する近代化遺産として名古屋市指定有形文化財に指定されています。
中川運河松重閘門|名古屋市
松重閘門(名古屋市中川区山王一丁目)
※中川運河は、明治時代に発達した名古屋駅と名古屋港を結ぶ運河として大正時代に計画され1930年(昭和5年)に完成。その2年後の1932年(昭和7年)には松重閘門を通して堀川とを結ぶ東支線が完成し、当時の新聞に「東洋一の大運河」と伝えられた。
(今回の舞台)
(2024年06月09日)