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近代化産業遺産「肥薩線」の過去・現在・未来

★肥薩線は、明治近代化から戦後復興に至るまで、多くの人や物を運び、わが国の経済成長を力強く支えてきた。また、開業以来1世紀以上を経た現在においても、明治・大正時代の鉄道遺構は現役。地域の足として、また観光産業を支える基幹インフラとして、肥薩線は多くの人々に利用され、愛されている。

【肥薩線の歴史】 JR肥薩線は、八代駅(熊本県八代市)から人吉駅(熊本県人吉市)を経由し、隼人駅(鹿児島県霧島市)に至る延長124.2kmの鉄道路線。もとは鹿児島本線として整備された路線で、明治5年(1872)に東京・新橋~横浜間の鉄道開業からスタートしたわが国の鉄道史は、明治42年(1909)に此の路線(八代~鹿児島間)が開通したことにより、「青森~鹿児島間の日本縦断鉄道の完成」という大きな節目を迎えた。  当時の日本(明治)政府は、版籍奉還や廃藩置県を通して中央集権国家体制を固め、「富国強兵」や「殖産興業」の理念のもと、新しい国家づくりを進めていたが、これを支えるインフラ整備政策の第一は、鉄道整備であった。とりわけ、日清(1894-1895)・日露(1904-1905)の両戦争を経て、日本が近代国家として世界(列強諸国)に認められる過程において、国有化された幹線鉄道ネットワークは大きな役割を果たした。国内兵力輸送の観点から、国有鉄道の整備拡充は最重要国策の一つであった。  こうした背景の下、当時、八代~鹿児島間の整備ルートとして政府が選択したのは、西海岸ルート(川内ルート=現・肥薩おれんじ鉄道ルート)ではなく、内陸ルート(人吉・隼人ルート=現・JR肥薩線ルート)であった。敢えて地形的に厳しい(60箇所ものトンネル、90箇所におよぶ橋梁、急勾配を克服するための日本初のループ線、スイッチバックなどの難所がある)内陸部に鉄道を敷設した理由は、地政学上(国防上)の理由からだといわれる。当時の軍事力の中心は艦船と歩兵であり、海岸部の鉄道敷設は艦砲攻撃によるリスクを考慮し排除された。  明治42年(1909)に全線開通した内陸ルートは、鹿児島本線として(人流・物流の大動脈として)その役割を果たした後、昭和2年(1927)の西海岸ルートの全線開通(鹿児島本線の名称はそちらに移行)以降は「肥薩線」として運行されてきた。(鹿児島本線が西海岸ルートに移行した背景には、日露戦争(勝利)後は敵国による艦砲射撃のリスクが低くなったため、という地政学上の理由がある)  また、開業後の早い段階で幹線ルートから外れたため、肥薩線は複線化や電化の対象とはならず、結果、現在も明治・大正時代の鉄道遺構が現役のまま利用されており、これらは近代化産業遺産として注目されている。

 肥薩線100年のあゆみ(肥薩線を未来へつなぐ協議会 肥薩線利用促進存続期成会)↓ http://www.hisatsusen.com/01history/index.html

【肥薩線の特徴と近代化産業遺産】  肥薩線のうち、八代駅から人吉駅までの区間(51.8km)は通称「川線」と呼ばれ、日本三大急流の球磨川に寄り添う形で、深い渓谷の中を縫って線路が敷設されている。この区間には、20箇所以上のトンネルが掘られ、また球磨川やその他の河川、小水路などを横断するための大小様々な橋梁が存在し、それらは、建設当時のままの姿で数多く遺されている。  「川線」の区間にある代表的近代化産業遺産には、白石駅(明治41年開業当時の木造駅舎が残る)、球磨川第一橋梁(ピンで結合されたトランケートトラス橋。アメリカンブリッジ社製)、球磨川第二橋梁(同左)、人吉機関車庫(全国唯一の現役石造鉄道車庫)などがある。  一方、人吉駅から吉松駅までの区間(35km)は通称「山線」と呼ばれ、高低差430mもの非常に急勾配な山岳地帯を登っていく。このため、この区間には最大の難工事であった矢岳第一トンネル(2096m)を含め計21ヶ所のトンネルが掘られた。また、加久藤カルデラの外輪山である険しい矢岳峠を越えなければならないため(当時の蒸気機関車の能力で登ることができるぎりぎりの勾配で線路を敷設しなければならないことから)、日本初のループ線による勾配の緩和やスイッチバックと駅ホームの組み合わせなど、建設には当時の鉄道建設技術が結集された。  「山線」の区間にある代表的近代化産業遺産には、大畑駅(明治42年開業当時の木造駅舎が残る)、矢岳駅(同左)、SL展示館の保存車(蒸気機関車D51 170)、矢岳第一トンネル(肥薩線最長の隧道。両口には山縣伊三郎と後藤新平の揮毫による石額が掲げられている)などがある。

(肥薩線〇起点:八代駅)

(白石駅:明治41年開業当時の木造駅舎が残る)

(球磨川第一橋梁:トランケートトラス橋。アメリカンブリッジ社製)

(一勝地駅:球磨村観光案内所を兼ねる)

(一勝地駅:必勝祈願の入場券)

(人吉機関車庫:全国唯一の現役石造鉄道車庫)

(大畑ループ・スイッチバック:わが国唯一のループ、スイッチバック複合線)

(大畑駅:明治42年開業当時の木造駅舎が残る)

(肥薩線建設工事中の事故で亡くなった方々の慰霊碑)

(矢岳駅:明治42年開業当時の木造駅舎が残る)

 肥薩線の遺産群(肥薩線を未来へつなぐ協議会 肥薩線利用促進存続期成会)↓ http://www.hisatsusen.com/02isan/index.html

第一球磨川橋梁(土木遺産in九州-TOPページ)↓ http://dobokuisan.qscpua2.com/search-list/04kumamoto/04kumagawa/

 第二球磨川橋梁(土木遺産in九州-TOPページ)↓ http://dobokuisan.qscpua2.com/search-list/04kumamoto/13dainikumagawa/

 矢岳第一トンネル(土木遺産in九州-TOPページ)↓ http://dobokuisan.qscpua2.com/search-list/06miyazaki/02yatake/

肥薩線は、明治近代化から戦後復興に至るまで、多くの人や物を運び、わが国の経済成長を力強く支えてきた。また、開業以来1世紀以上を経た現在においても、肥薩線は地域の足として、また観光産業を支える基幹インフラとして、多くの人々に利用され、愛されている。  このような中、JR肥薩線の世界文化遺産登録と蒸気機関車D51の復活運行を目指して活動してきた「肥薩線を未来へつなぐ協議会」(熊本、宮崎、鹿児島の沿線14市町村で組織)の解散が確実になったとの新聞情報がある。同協議会は、2011年に発足して以来、肥薩線の歴史的文化的価値を検証し、その保存活用を図ることにより肥薩線を未来へ継承することを目的として、学術調査や資料収集、署名活動などを続けてきた。これに伴い、沿線16市町村で組織する「肥薩線利用促進・存続期成会」も解散する予定という。一方で、沿線の振興と肥薩線の魅力発信を柱とする新しい会を発足させるとの情報もある。  いずれにしても、肥薩線という価値のあるインフラストラクチャーを将来世代にしっかりと引き継いでいくことが求められている。それが現世代の責務であると思う。

 観光列車(肥薩線を未来へつなぐ協議会 肥薩線利用促進存続期成会)↓ http://www.hisatsusen.com/03train/index.html

 のんびりローカル線の旅「肥薩線」(@舎ひとよし)↓ http://www.hisatsusen.com/03train/index.html

(SL人吉)

(「かわせみ」と「いさぶろう」)

(「しんぺい」と桜)

(今回の舞台)

(2017年4月8日)

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