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遠山弥二兵衛と「湯の口ため池」の物語(山鹿市の国土教育)

★山鹿市三玉の蒲生地区にある「湯の口ため池」は、今も地域にとって欠くことの出来ない農業インフラである。毎年四月四日には、ため池を造り、干ばつを防いだ遠山弥二兵衛の功績と水の恵に感謝するため、遠山神社で例祭が営まれている。

 山鹿市三玉の蒲生地区は、かつては用水の確保が難しい土地で、江戸時代にはしばしば干ばつによる不作に苦しめられていた。  安政2年(1855年)、中村手永の惣庄屋であった遠山弥ニ兵衛(1823~1907)は、そのような苦境にあえぐ村人を救うために、大きなため池をつくろうと決意し、藩に働きかけて工事にこぎつけた。  この工事は、内田川から水を引く必要があるため、総延長約3kmにおよぶ水路を切り開き、その間に3ヶ所、計630mのトンネル掘削が必要とされる難工事であったが、着手2年後の1857年には、満水時に50万トンの貯水量を誇る熊本県下最大(東西530m、南北220m、堤防の高さ30m)のため池が完成した。 『近代の山鹿の偉人たちシリーズ005~遠山弥二兵衛~』(山鹿市教育委員会)は、「ため池の恩恵」と「遠山祭」について、次のように紹介している。 ため池の恩恵  ため池の完成によって、蒲生地区をはじめ、御宇田・方保田・古閑・中村・日置・白石などの各村が恩恵を受け、新しい水田が七十六ヘクタールほど開発されたと言われています。  反あたり二俵だった収量が、五、六俵とれるようになりました。ため池ができる前と比べると、村には収入が増え、蔵が増え、床、瓦、家の造りも良くなり、村人の暮らしは豊かになりました。  用水路の清掃は年に一回、十一月の上旬に、村中総出で行なわれています。水路の水を活用して、自分で稲作に水を使っておられる方はもちろん、そうではない方々も、蒲生地区の方々、あるいは下流で水の恩恵を受けてこられた方々、また、その周辺地域の方々は、米を作る、作らないに関わらず、総出で清掃活動をされています。 遠山祭について  三玉地区の人々は遠山弥二兵衛に感謝して、堤防の横に遠山神社をつくり、彰徳碑を立てました。地元の蒲生地区では、毎年四月四日にその遠山神社で遠山祭が営まれています。神事が行なわれ、地域の方々が大勢集まり、遠山氏の子孫の方を北九州から招待し、彼の功績を偲びながらお祭りが行なわれます。  約百五十年前の遠山氏の功績に対して、蒲生地区の方々がずっと昔の恩恵を忘れずに、自分たちの先代、先々代から、このような形で遠山氏への感謝の心を持ちながら、祭を続けておられます。」

 『近代の山鹿の偉人たちシリーズ005~遠山弥二兵衛~』(山鹿市教育委員会)↓ http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1281667313180/files/005.PDF

(遠山神社と湯の口ため池)

(遠山神社由緒板)

(湯の口ため池)

山鹿市三玉の蒲生地区にある「湯の口ため池」は、今も地域にとって欠くことの出来ない農業インフラである。毎年四月四日には、ため池を造り、干ばつを防いだ遠山弥二兵衛の功績と水の恵に感謝するため、遠山神社で例祭が営まれている。  また、山鹿市では小学3・4年生用社会科副教材『わたしたちの山鹿』(山鹿市教育委員会 H15.3)において、「湯の口ため池づくり」を取り上げ、遠山弥二兵衛の功績とその恩恵を若い世代に伝えている。

【『わたしたちの山鹿』山鹿市教育委員会(H15.3)小学3・4年生用社会科副教材から】 『地域の発展につくした人々 (1)湯の口のため池づくり』  三玉の蒲生地区に大きな池があるのを知っていますか。堤防の長さ168メートル、高さ16メートルもあるこの池は、50万トンもの水をためることのできる、鹿本郡市で一番大きいため池です。  湯の口のことについてくわしい蒲生地区のおじさんに話を聞いてみました。 -・-・-・-・-・-・-・- 【おじさんの話】  このため池は、三玉地区の農業に使うために、水路をつくり内田川から水をもらっているんだよ。内田川流域の人々に迷惑をかけないように水田に水がいらない秋から春にかけて水を引き、春から秋にかけて水を使うので、季節によって水の量がちがうんだよ。  ところで、このため池は今から150年ほど前の安政2年(1855年)につくられたんだよ。そのころ、大きな川がない三玉地区では、日照りの年は米がとれず、村人はとても因っていたんだ。そこで、八代から来てこの地方の惣庄屋を務めていた遠山弥ニ兵衛は、大きなため池をつくり人々を助けようと思ったんだよ。 -・-・-・-・-・-・-・-  32オの弥ニ兵衛は、三玉を見て回り、日の岡山と蒲生台地にかこまれた蒲生の谷を利用して、ため池をつくることにしました。しかし、ため池にためる水を引く川が近くにありません。そこで、内田川から水を引くことを決め、3キロメートルにわたる用水路と、3つのトンネルをつくりました。3つのトンネルを合わせると長さ350メートルにもなります。くわやのみしかない昔のことなので、水がうまく流れるようにするには、たいへん苦労しました。  このように大規模な工事だったのですが、弥ニ兵衛は生活が苦しいこの地方の人々になるべく無理をかけまいと、役所に頼み込んで工事に必要なお金(5000両)を出してもらったり、村人がため池づくりの仕事で働くのも一日だけですむようにしてもらったりしました。  3年もかかってやっとため池が完成した日、もし、堤防がくずれでもしたら腹を切ってみなにおわびしようと、弥ニ兵衛は刀を持って堤防の上に立っていましたが、さすがに苦心した堤防はびくともしませんでした。このあと、カを合わせて荒れ地を開いたり、ため池から水を引く用水路をつくったりしたので、新しく水田が500ヘクタールふえたといわれています。人々は遠山弥ニ兵衛に感謝して、堤防の横に遠山神社をつくり、今でもお祭りを続けています。  こうして長い間使われてきたため池は、やがてだんだん堤防が弱くなり、中の水がもれるようになりました。そこで昭和62年には、山鹿市が熊本県や国にお願いして2億8千万円をかけた堤防の修理が行われました。工事は、3年続きましたが、この地域の人々も工事に必要なお金を出したり、工事中は田植えをやめたりして協力しました。  つくられてから150年ほどたつこのため池は、今も、なくてはならないものとして大切に使われています。

(今回の舞台)

(2017年7月09日)

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