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日本遺産「菊池川流域 今昔『水稲』物語」と冨田甚平

★日本遺産に認定された「米造り、二千年にわたる大地の記録~菊池川流域 今昔『水稲』物語~」のストーリーにも出てくる菊池市出身の農業技術者「冨田甚平」は、私財をなげうって湿田を乾田に変える「暗渠排水技術」を開発した。

【日本遺産認定/菊池川流域 今昔『水稲』物語】  文化庁は4月28日、「日本遺産」の第3弾に、「米作り、二千年にわたる大地の記憶~菊池川流域『今昔水稲物語』~」(山鹿市、玉名市、菊池市、和水町)などを認定した。  翌日の地元紙(熊本日日新聞2017年4月29日朝刊)は「菊池から玉名の菊池川流域、日本遺産認定」というタイトルで、この朗報を次のように紹介した。  「文化庁は28日、有形、無形の文化財群が織り成すストーリー(物語)で地域の魅力を発信する「日本遺産」の第3弾に、「米作り、二千年にわたる大地の記憶~菊池川流域『今昔水稲物語』~」(山鹿市、玉名市、菊池市、和水町)など23道府県の17件を認定した。2015年から毎年選んでおり、計54件となった。東京五輪・パラリンピックが開かれる20年までに100件に増やす。  県内からの認定は、第1弾に入った「相良700年が生んだ保守と進取の文化」(人吉球磨地域10市町村)に続き2例目。今回は全国から79件(熊本は1件)の申請があった。  「米作り─」の物語は、弥生時代から脈々と続く稲作の歴史や痕跡、地域文化への広がりを紹介。平地には奈良時代などに水田を区画整備した条里制跡、山間部には江戸時代から棚田を潤す用水路、海辺には明治時代に築かれた干拓堤防が残るなど、「古代から現代までの日本の米作り文化の縮図」と訴えた。  物語を構成する文化財は33件。米の豊かさで繁栄した「江田船山古墳」(和水町)、石積み堤防が長さ5・2キロに及ぶ「旧玉名干拓施設」(玉名市)、米で財を成した商人が出資した芝居小屋「八千代座」(山鹿市)、五穀豊穣[ほうじょう]を祈る舞「菊池の松囃子[ばやし]」(菊池市)などを列挙した。  有識者でつくる審査委員会は「米作りの変遷の痕跡が集中し、コンパクトに体感できる地域は全国でも珍しい」と評価した。  認定は、国内外に地域の特色を端的に伝え、観光振興につなげるのが狙い。今回、7道府県で初めて認定され、遺産がないのは宮崎、鹿児島、沖縄など7都県となった。最も認定が多いのは兵庫で、複数の県にまたがる物語も含めて計4件。  認定1件につき、国から平均4千万円の補助があり、案内板の設置、多言語のホームページ作成などに活用できる。(潮崎知博、内田裕之)」

(江田船山古墳)

(鞠智城)

(高瀬船着場跡)

(旧玉名干拓施設)

(八千代座)

 「菊池川流域 今昔『水稲』物語」のストーリーは以下の通りである(山鹿市ホームページより)。

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[菊池川流域の米作りの曙]  ほぼ全国的に米作りが行われるようになった弥生時代。熊本県北部の菊池川流域では、水を引きやすい川沿いの平坦な土地で米作りを始めた。その後、鉄製農具を利用して生産性を高め、米作りで豊かな土地となっていった。こうした豊かさが、豪華な副葬品が出土した「江田船山古墳」や絵画などの装飾が施された「チブサン古墳」など、多彩で豊かな葬送文化の誕生につながり、やがて高い技術力に支えられた菊池川流域の米作りの文化が幕を開けることとなる。 [二千年にわたる米作りの開墾の歴史]  菊池川流域は、阿蘇外輪山の菊池渓谷を源とする清らかでミネラル豊富な水に恵まれた地域である。約二千年前、最初は小さな水田から始まった米作りだったが、灌漑技術の導入により、8世紀頃から大規模な土地区画制度である「条里制」が全国各地に敷かれると、古代、菊池川流域の平地では一区画約1ha(10,000㎡)の水田が整備された。また、大和朝廷は米の豊かなこの土地の高台に古代山城「鞠智城」を築き、米倉を建てて軍事補給基地としての機能をもたせた。条里制の地割は時代が移り変わる中でも大きな改良を必要とせず、鞠智城跡を訪れると、碁盤状にきれいに区画された千年以上続く田園風景を一望できる。  中世以降、山間では、溜め池造成や水路建設などの農業土木技術の向上によって、菊池川流域でも井手(用水路)が整備され、それまで水が届かなかった高台を水田に変えた。江戸時代になると測量技術や土木技術が更に向上し、各地に長距離の井手が通された。全長11kmの「原井手」は、延べ454mものマブ(水路トンネル)を手作業で穿ち、水田を作るのが難しかった山地に棚田を拓き、米作りを可能にした。「原井手」は300年以上経った今も現役で、地域の棚田を潤している。番所地区の棚田は、急峻な山の斜面を切り拓き石積みを組んだものであるが、集落内の住宅等も石積みの上に築かれ、漆喰や泥壁等の伝統的な工法で建てられており、棚田をはじめ山里の自然と古い屋並みが調和した農村景観を見ることができる。  近世以降、海辺では、築堤や樋門建設の技術が発達し干拓事業が続けられてきた。菊池川河口には広大な干潟があり、堤防を築いて潮止めすることで耕作地を開くことができた。その規模は年を追うごとに大きくなった。明治時代中頃には高さ3~6mの石積みが長さ5.2kmにも及ぶ、当時国内最大級の「旧玉名干拓施設」の堤防が築かれ、最終的には面積3,000haの耕作地が海から誕生した。「海の万里の長城」とも称されるこの堤防は、城の石垣のような様相で、近くに佇むと見る者を圧倒し、秋の収穫時には金色の稲穂と石積みの堤防群とが美しいコントラストを見せてくれる。  近代に入ると菊池川沿いの沼地では、菊池市出身の農業技術者、冨田甚平が私財をなげうって収穫期にも水が抜けなかった湿田を乾田に変える暗渠排水技術を開発した。同時に湿田から抜いた水を水田に活用する技術を開発して日照り対策も行い、この技術を全国に広めていった。 [菊池川流域の米作りの営みがもたらした豊かな文化]  菊池川は水田を潤すだけでなく、米の輸送にも欠かせないものだった。11世紀頃から450年にわたる歴史の中で一時は九州を平定した菊池一族は、菊池川での米の輸送などで財を成し、安定した統治を行うことで米作りの発展に寄与した。江戸時代に入ると、菊池川の水運はますます重要となった。菊池川を下ると石垣で整備された「高瀬船着場跡」が見えてくる。菊池川流域の年貢米を集め、「俵ころがし」という石畳の斜面を使って船に米俵を載せ、大坂などに運んだ。  江戸時代、菊池川の舟着場と「豊前街道」が交差した山鹿湯町は、米問屋や麹屋、造り酒屋、米菓子屋など米を扱う商店が軒を連ね、活況を呈した。今でも酒蔵や麹屋などが商いを続けており、これらの町並みは訪れる人を楽しませている。また米問屋や造り酒屋などで財を成した商人達が出資して建てられた明治期の芝居小屋「八千代座」も、当時の賑わいに負けず、今も多くの歌舞伎役者や地元の人々に愛されており、往時の風情を堪能することができる。  菊池川流域では、田の神に豊作を祈るための様々な祭りや風習が受け継がれている。小正月頃、子どもたちが田の畔を壊すモグラを追い払い、田植え前には雨乞い踊りで降雨を祈り、晩夏には風鎮祭を開き稲が台風で倒れないように祈願する。収穫後の秋以降、例大祭などで実りに感謝するとともに、舞の奉納などで来季の五穀豊穣を祈願する。  また、この地方に伝わる食事の中には、菊池川が流れこむ有明海で採れた新鮮なこのしろにすし飯を詰めた「このしろの丸ずし」や菊池川で獲れたモクズガニのみそが溶け込んだ「ガネめし」など、地域の食材と混ぜ合わせた米どころならではの料理が残っている。  この地方の伝統的な酒「赤酒」は、保存のために草木を焼いた灰を入れることで酒の色が変化し、その名のごとく赤色をした酒である。甘みが強く、江戸時代は藩の酒として、幕府へ献上していた。地元では祭りや祝い事で飲まれていたが、現在は正月のお屠蘇として欠かせないものとなっている。  古代から脈々と続けられてきた米作りの営みは、江戸時代には「天下第一の米」と呼ばれる肥後米の中心産地として発展していった。将軍の御供米(神仏に捧げるお米)にはこのお米が用いられ、大坂では千両役者や横綱へのお祝い米として「肥後米進上」という立札をつけて贈られるほどだった。菊池川流域は、現代でも全国で最高位の評価を受け続ける、日本有数の米どころである。

 このように菊池川流域には、平地には古代の条里、山間には中世以降の井手と棚田、海辺には近世以降の干拓、そして沼地には近代の暗渠排水という、二千年の米づくりを支えた先人の英知と情熱による土地利用の広がりが、今もこの大地にその姿を留めている。ここに来ればこうした姿を一堂に、しかもコンパクトに見ることができる。加えて、賑やかな祭りや豊かな食が息づくなど、稲作にかかわる無形の文化も一体的に体感できる。  これはまさに古代から現代までの日本の米作り文化の縮図であり、菊池川流域は日本の米作りの文化的景観とそれによってもたらされた芸能や食文化に出会える稀有な場所なのである。

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 ≪米作り、二千年にわたる大地の記憶 ~菊池川流域「今昔『水稲』物語」~≫のストーリー(山鹿市ホームページ)↓ http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1486107686543/files/kikuchigawa.pdf

 平成29年度「日本遺産(Japan Heritage)」の認定結果の発表及び認定証の交付について(文化庁ホームページ)↓ http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/2017042801.html

【冨田甚平と農地改良】  「20世紀日本人名事典」によると、冨田甚平は次のように紹介されている。 ■冨田 甚平(トミタ ジンペイ) ■明治〜昭和期の農業指導者 ■生年:嘉永1年11月30日(1848年) ■没年:昭和2(1927)年3月3日 ■出生地:肥後国菊池郡水島村(熊本県菊池郡七城町) ■経歴:生家は郷士で田畑5町歩の地主。同郡辺田村の筑紫宗甫に入門して漢学を修める。のち農業に従事するようになり、明治11年に劣等の湿田が多い同郡の農業改善のため、暗渠排水による乾田化の実験を行って冨田式暗渠排水法を考案。23年鹿児島県農商課雇となり、加納久宜知事の下で耕地の整理事業を担当。33年には山口県農事巡回教師に就任し、自身が研究した排水法の普及や農事改良の指導に当たった。さらに43年から大正3年まで秋田県で耕地整理に携わった。その後、朝鮮に渡り、長男の両助と共に同地の開拓事業に尽力。建野保との共著に「冨田式暗渠排水法」がある。

 農業土木を支えてきた人々「冨田甚平」(農業農村工学会)↓ http://www.jsidre.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/03/keisai_53-5hito.pdf

 「農業と水(冨田甚平と農業への貢献)」動画で見る菊池/七城の動画↓


(冨田甚平の碑:菊池市七城/台(うてな)台地)


(冨田甚平翁土地改良の詩)

(台台地から見た田園風景)

 冨田甚平による農地改良の歴史(先人達による国土への働きかけの歴史)は、本県(熊本県)の道徳教育用郷土資料『熊本の心』に、『湿田にいどむ』というタイトルで採録されている。 【道徳教育用郷土資料『熊本の心』から】 『湿田にいどむ』-中学校-  冨田甚平の生まれた菊池郡七城町(現在の菊池市七城町)には、菊池川とその支流がいくすじも流れており、もとは地下水のしみでる湿田がかなり広がっていた。そこでは、年に一回、品質の良くない米が少しとれるだけであった。  こうした湿田は、排水が悪くて水気が多く、ぬかリやすいので、耕作に牛や馬は使えない。だから、一枚一枚くわで掘リおこし耕さねばならない。所によっては腰までどろどろの泥に埋まっての作業で、知らない間にひるに吸われて、足は真赤な血で染まる。田植えには、ぬかるみにのめリこんで沈まないよう、牟田下駄(板に鼻緒をすげたはき物)をはいて、苗を植えていく。そのつらさ 、その苦労は、言葉では言い尽くせないものがあった。  明治の初めのころ、父とともに農業を営んでいた甚平は、幼い時からこのような情景を見て育った。この湿田を、何とかして作物のよく実る立派な水田によみがえらせたい、これが甚平の願いだった。そのころ思い描いた夢を、彼は、後年次のような「土地改良の詩」 にうたいあげている。

 みいりもうすく品あしき 鹿の屋の深田も排水し 田区の改正ごばんがた  鍬を鋤に取リかえて 作業もやすくすみやかに 病虫害もうすらぎて  米のみのリのますのみか 水田かわりて麦菜種

明治八(一八七五)年、甚平は頼まれて村の土地調査にあたった。 その時、あぜ一つでとり入れの量に大きな差があることに気がついた。原因は、排水の良しあしの差だと直感したので、早急にそのことを実験してみたいと思いたった。  当時、彼の家には、水はけの悪い湿田は一つもなかった。 甚平が、村の中でも特にひどい湿田一反四畝(約一四アール)の土地を買いたいと言い出した時には、家族の者がみな驚いた。 「うちにはいい田んぼがそろっているのに、なぜわざわざあんなひどい田んぼを買うのか。」 「ひどい湿田だから買いたいのだよ。どうしたらあの田んぼの水を抜くことができるか、試してみたい。みんなのためだ。どうか分かってくれ。」  こんなやりとりのあと、高い値段でその田んぼを買いとった。そして、自力でその田の排水工事にとりかかった。それは、田に溝を掘り、その溝に青竹を束ねてしきこみ、地下に水の通る水路、すなわち暗渠を作るというものだった。結果はどうなるのか、かたずをのむ思いで水はけの様子を見守った。  実験の結果は成功だった。一年中じめじめしていた湿田を、排水のよい、乾燥して畑にも使える乾田にすることができた。生産量もずっと高くなった。また、田を鋤で耕すことができるようになって、作業もやリやすくなり、能率をあげることができた。結局、この暗渠排水法で排水すれば、何もかも良くなることが立証されたのである。  気をよくした甚平は、その後、近隣から頼まれたので、体験から生みだしたこの方式で、“ひどい湿田一町歩(一ヘクタール)あまりの暗渠排水工事を行った。そして、その田も、ふつうの水田と同じく、米を収穫した後に麦や野菜などの栽培ができる土地に生まれ変わった。  このように、甚平は暗渠排水技術の開発に成功したが、まだ解決したい問題がいくつか残されていた。彼は一歩進んで考えた。 (湿田の水は抜くだけではもったいない。抜いたその水を何とか利用する方法はないものか。) と、苦心の末、甚平はついに留井戸というものを考案した。 そのため、排水するとともに、必要があればその水を、田を潤すことにも使用できるようになった。これは、大きな前進であった。おかげで干害(ひでりの害)も避けることができるようになった。  この留井戸は、画期的な発明だったが、それでも、幾つかの不都合な点があった。彼は更に考えた。 (留井戸をもっと小型の簡便なものにして、排水した水を自由に利用できる方法はないものか。)  甚平は、今度は水閘土管というものを工夫し製作した。これは、小さくてあぜに設けることができるから、水田をつぶさずにすみ、耕作にも差しさわりがない。また、値段も安く、操作が極めて簡単であった。そのため、またたく聞に普及した。  これらの研究開発を進めるとともに、一方では、数々の工事を手がけながら、暗渠設置についての効果的な方法や原則などをはっきりうちだし、 富田式といわれる暗渠排水法を確立したのであった。 甚平は、熊本県の各地をはじめ、鹿児島県・山口県・秋田県など、各県の土地改良事業を手がけてきた。その面積は、実に一万町歩(一万ヘクタール)に上るという。  甚平は、少年時代に読み書きを教える塾に通っただけで、特別の教育を受けたわけではない。しかしその創意と努力で、自分がうたいあげた「土地改良の詩」の理想郷を、みごと現実のものにした。しかも、いかにも楽しげに湿田にいどみ続け、次々と美田を生みだしていった。 まさに、世人に先んじて湿田にいどんだ、土地改良の父である。

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 冨田甚平は、江戸時代の終わりに生まれた。土地調査をきっかけに考え出した暗渠排水方法は、稲の根を研究して生まれた技術だと言われている。次々に確立させた技術のおかげで、農家は作業をしやすくなり、収穫できる米の量が増えた。米を育てない時期の田んぼで、別の作物を育てることも可能になったため、農家の収入が増えた。そのため、日本各地に招かれ、農地改良の指導を行った。朝鮮半島に渡って干拓を指導し、八十歳の時に亡くなった。

(今回の舞台)

(2017年5月14日)

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