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球磨川を切り開いた林正盛の物語(球磨川の舟運開発)

★江戸時代(17世紀)の人吉藩の御用商人・林藤左衛門正盛によって舟路が開削されて以降は、球磨川は外部との交通・物流の幹線として、また参勤交代にも利用され、人吉・球磨地域の発展に多大な貢献を果たした。

 人吉球磨地域は、鹿児島県と宮崎県との県境にあって熊本県の最南端に位置し、四方八方を切り立った山に囲まれた盆地にある。現在でこそ、八代から人吉に行く交通手段には、高速道路(九州縦貫自動車道)、一般国道219号、JR肥薩線など、いくつかの代替ルート・交通機関が存在するが、江戸時代の初期までは、険しい山道(峠道)を歩いて越えるしか方法はなかった。人吉から球磨川沿いの小道を下り、告(球磨村)から山道を越えて佐敷(芦北町)に出て八代まで舟で渡るルート、球磨川支流の万江川沿いに山道を登り、肥後峠を越えて坂本(八代市)に出て、球磨川沿いに八代へ下るルート、照岳(山江村)越え、白岩(山江・球磨村境)越えルートなどである。  この状況を打開したのが、江戸時代(17世紀)の人吉藩の御用商人・林藤左衛門正盛。最上川・富士川と並ぶ「日本三大急流」の一つである球磨川の中流(山間の狭窄部)は、かつては人吉から八代まで巨岩がひしめく急流が続き水運に利用するのが難しかった。が、正盛によって舟路が開削されて以降は、球磨川は外部との交通・物流の幹線として、また参勤交代にも利用され、人吉・球磨地域の発展に多大な貢献を果たした。  山川出版社発行の『熊本県の歴史』(新版県史シリーズ第43巻)には、 「寛文二(一六六二)年、藩主相良頼喬の叔父(母の弟)で、人吉で商業をいとなんでいた林藤左衛門正盛は、独力で球磨川の水路開削を願いでて許された。正盛は丹波篠山(兵庫県篠山町)の出身であったが、藩主との関係からみて特権商人であったと考えられている。しかも京坂商人とつながっている商人で、人吉藩が税として徴集する多様な球磨地方の山林産物の商品化をはかったのであろう。  正盛が水路開削にあたってもっとも苦心したのは、川底の岩石の除去であった。とくに頭痛の種は、神瀬村から四キロほどのぼった大瀬の亀石とよばれる巨岩の除去であった。伝説では、岩石の上で火を焚いて熱し、それを急激に冷やしてたがねを打ちこんで砕く方法を、夢のなかで狐が教えたとする。この方法はすでに京坂地方では知られた技術であったろうが、九州では神のお告げに匹敵する出来事であった。多額の費用と二年の歳月を費やして寛文四年、人吉・八代間の水運が開かれ、参勤交代に利用されるようになった。  正盛は領主からその功として郡中の荷物問屋・川舟取締役、舟問屋の特権をあたえられた。一方、郡中産物の輸送の道が開かれて、人吉町は山林商品の集散地として繁栄が約束された。寛政元(一七八九)年、人吉町には土蔵九五棟、問屋一七軒(川舟問屋二、他領川舟問屋四、商品問屋六、日雇問屋二、杣子問屋三)、酒造本手二〇、酒造屋一二軒を数えているが、八代河港までの水路を球磨地方の産物がくだり、戻り船によって塩・古手・肥料その他の商品が多量に運搬され、人吉の流通経済は急速に発展した」とある。

 なお、亀割石の伝説は、かつて「まんが日本昔ばなし」にも採録されていた。小・中学校教育における「伝記」と同様に、教育効果のある(誠実、正義、勇気、努力、博愛、利他的精神等を肯定的にとらえた)アニメ放送は、国土・インフラ教育にとって良い教材であったのだが、・・・。

【亀割石の伝説】 -日本三大急流「球磨川」の難工事を伝える話-  むかしむかし、九州は熊本に流れる球磨川(くまがわ)は、流れがとても早く飛沫を上げて流れるその様は凄まじいものでした。  この球磨川の付近に住む山間の村人達は、下流の人吉(ひとよし)の町に山で捕れたものを売りに行くのですが、流れの急な球磨川に加えて大きな岩が道を塞ぎ、しばしば足をとられた村人が転落して命を落としてしまう難所でした。  そこで、人吉の町に住む問屋の主人「林正盛」は村人が安心して町に来れるように、球磨川に船道を造ることにしました。工事は順調に進むかにみえましたが、大瀬下にある「亀石」という大きな石で足止めをくってしまいました。  石工達と苦心してタガネを打ち込みましたが、亀石は一向に割れる気配がありません。なんとか石を割る方法はないものかと考えを巡らしていると、藪の中から白い狐が現れました。そしてその夜、狐が正盛の夢の中に現れ「亀石の上で枯れ木を沢山燃やせ。どんな硬い岩も火には弱いものだ」とお告げをくれました。  正盛は夜が明けるやいなや、亀石の上に枯れ木を沢山積み上げて火を放ちました。そうして燃え尽きたあと枯れ木のカスをのけると、あの硬かった亀石に大きなひび割れができ、やがて真っ二つに割れて半分はバラバラになって川に流されていきました。  流れをせき止め、急にしていた亀石が割れたので球磨川の水は少し緩やかになって流れていきました。それから先は工事は順調に進み、球磨川の船道整備は完成したのでした。  正盛はお告げをくれた白狐に感謝し、稲荷神社を祀るようになりました。そして、割れた亀石の残りは「亀割石」と呼ばれるようになり、村人達は球磨川を通る船に「亀」の字をつけて、正盛と石工達の労苦を偲ぶようになったということです。

亀割石(まんが日本昔ばなし~あらすじデータベース~)↓ http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=979

亀割石(まんが日本昔ばなし動画)↓ http://nipponmukasibanasi.seesaa.net/article/384401497.html

【球磨川舟運のその後】  江戸時代~明治時代を通して(正盛の球磨川開削から200年以上)、球磨川の舟運は、人々の交通と物資の運搬に欠かせないものであったが、時は流れ、日露戦争直後の明治41年6月に肥薩線(当時は鹿児島本線)の八代~人吉間が開通すると状況は一変した。スピード・運搬量に勝る鉄道の登場で舟運は一気に衰退し、現在では人吉から一勝地までの観光用の「球磨川下り」になごりをとどめるのみである。

(球磨川中流(山間狭窄部)の流れ)

(球磨川中流(山間狭窄部)の流れ)

(球磨川下り、ラフティング)

球磨川下り・ラフティング(「くまがわ百景」八代河川国道事務所HP)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/yatusiro/site_files/file/river/fukei/natsu05.pdf

(今回の舞台)

(2017年3月19日)

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