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日本三大急流の一つ「球磨川」流域の地形と歴史

★平家の落人伝説で有名な秘境「五家荘」を源流に持つ「川辺川流域」、相良氏統治700年の歴史が育んだ球磨独自の文化を有する「人吉・球磨盆地」、干拓によって生まれた広大な耕地と熊本県第二の都市「八代市」を有する「八代平野」。球磨川(周辺)流域は様々な顔を併せ持つ。

 球磨川は、その源を熊本県球磨郡銚子笠(標高1,489m)に発し、川辺川をはじめとする支流を併せながら熊本県南部の人吉・球磨盆地をほぼ西に向かって貫流し、さらに流向を北に転じながら山間の狭窄部を流下、遙拝堰を境に扇状地(八代平野につながる)に出て、前川・南川を分派して八代海(不知火海)に注ぐ「熊本県内最大の河川」である。また、球磨川は、最上川・富士川と並ぶ「日本三大急流」の一つでもある。

 球磨川流域の概要(八代河川国道事務所)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/yatusiro/river/index.html

 球磨川の支流「川辺川」の上流(源流)には、平家の落人伝説で有名な「五家荘」があり、伝承によれば、平清経の曾孫たち(緒方氏)や菅原道真の子孫たち(左座氏)がこの地を治めたとされる。また、五家荘は古くから日本を代表する秘境として知られており、国道445号や県道が整備された現在でも、その様相は変わっていない。毎年、秋の紅葉祭シーズンには多くの観光客がこの地を訪れるが、そのアクセスの困難性から、「国道445号」ではなく「酷道445号」と称されることも少なくない。

 五家荘ネット↓ http://www.gokanosyo.net/

 酷道445号↓(特にpart2の「美里町→八代市」が厳しい) http://route01.com/r445a.html

 球磨川の上流「人吉・球磨盆地」は、鹿児島県と宮崎県との県境(熊本県の最南端)に位置し、四方八方を切り立った山に囲まれた地形にあるため、中世以来700年にわたる相良氏の統治が続き、球磨独自の文化が保たれている。「青井阿蘇神社」の境内に連なる茅葺と銅板葺の社殿はその代表格である。  また、近世には上球磨から中球磨にかけて、幸野溝・百太郎溝が掘り進められ、肥沃な穀倉地帯が形成された。人吉・球磨盆地は、今では、良質な水に恵まれた米どころであり、日本の米焼酎の代表的生産地でもある。

球磨川の中流域(山間の狭窄部)は、かつては人吉から八代まで巨岩がひしめく急流が続き水運に利用するのが難しかったが、江戸時代、相良藩の御用商人林藤左衛門正盛によって舟路が開削されて以降は、球磨川は外部との交通・物流の幹線として、また参勤交代にも利用され、人吉・球磨地方の発展に多大な貢献を果たした。

 球磨川の下流域には、熊本県第二の都市「八代市」があり、八代港(重要港湾)、JR九州新幹線、肥薩線、肥薩おれんじ鉄道、九州縦断自動車道、南九州西回り自動車道、国道3号、219号等の基幹交通施設が結節するなど、熊本県南部における社会・経済・文化の中心を形成している。  また、球磨川河口に広がる八代平野の3分の2程度は、干拓によって生まれた土地と云われており、この大規模な干拓は、初代熊本藩主加藤清正公の手によって始まり(旧千丁町の新牟田地区)、その後、昭和に至るまで段階を追って進められてきた。百町新地、四百町新地、七百町新地、郡築新地、昭和新地、金剛新地、和鹿島新地などの地名は、先人たちの努力の証である。そして、その開拓(新地開発)の下部構造を担ったのが球磨川の豊富な水で、現在、遙拝堰で取水された球磨川の水は、干拓された広大な耕地を潤す(農業用水)だけでなく、八代平野の臨海工業地帯で操業されている紙・パルプや金属加工製造業などの工業用水、さらには水力発電など、幅広く利用されている。

 くまがわ百景(八代河川国道事務所)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/yatusiro/river/hukei/index.html

 球磨川ライブカメラ(八代河川国道事務所)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/yatusiro/kumagawa/bousai/camera0000.html

(球磨川下流域:八代市街を臨む)

(五家荘「樅木吊橋」)

(五家荘「梅の木轟」)

(球磨川上流:人吉市)

(球磨川中流:八代市坂本町)

(加藤清正公ゆかりの「遙拝堰」)

(八代城(松江城)跡)

(球磨川河口)

(景行天皇九州巡幸ゆかりの場所「水島」)

(今回の舞台)

(2016年11月6日)

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