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矢作川下流支派川改修の歴史<三河国土学④>

★矢作川下流域支派川では、中近世から河川改修事業が実施されてきました。


 第31回から第33回まで、矢作川に関連する話題を取り上げてきましたが、ここで改めて矢作川下流支派川の河川改修の歴史を再整理しておこうと思います。


【室町時代以前】

 岡崎市の中心部を流れる乙川(菅生川)は、現在は岡崎城の南側を西に流れて矢作川へと合流していますが、中世までの乙川の本流は岡崎市久後崎町付近から南に流れて、現在の占部川筋へと流れていました。また、現在の占部川と広田川の合流点付近には「菱池(菱池沼)」があって、これらの水の流れは当時の矢作川(現在の矢作古川、というか旧「弓取川」筋)とは合流せずに、そのまま三河湾に注いでいたようです。

 その後、室町時代の1399年(応永6年)になって、久後崎町付近の左岸に「六名堤(むつなつつみ)」の築造と乙川の矢作川合流化(乙川の開削)が行われたことで、矢作川から岡崎城下への舟運が容易になる(物資運搬の利便性が向上する)とともに、乙川旧水路を締め切ったことで占部川・広田川流域の洪水リスクが軽減された結果、新たに水田が生まれ、南側に広がる六ツ美地域が開発されることになりました。

 なお、1882年(明治15年)の水害(通称「久後切れ」)では、乙川の六名堤が切れ、死者43名、3郡69か村に被害が及びましたが、この時の氾濫は旧流路を流れ、占部川を経て広田川に至りました(水害が、鎌倉時代以前の乙川の流れを蘇らせたということになります)。


【江戸時代】

 江戸時代に入って、1605年(慶長10年)徳川家康が米津清右衛門に命じて、下流の台地(現西尾市矢作古川の分流点より米津町油ヶ渕流入地までの台地)を開削して、現在の矢作川(本川)の川筋を概成させたことで、当時の矢作川(現在の矢作古川、というか旧「弓取川」筋)の洪水リスクは軽減されることとなりました。

 その後、1645年(正保2年)の「古川の川違い(矢作古川を広田川へ合流させる付け替え工事)」によって、矢作古川の流れは現在の川筋となり、翌1646年(正保3年)には弓取川への分派口も締め切られ、現在の河川状況となりました。

 一方、少し上流に目を移すと、現在岡崎市上里付近で矢作川に合流する青木川は、江戸時代以前は現在の岡崎市百々町付近から南に流れ、伊賀川などと合流した後に乙川へと合流していましたが、こちらも正保年間(1644 - 1648年)に直接矢作川に合流するように付け替えられています。なお、現在の伊賀川(岡崎城西側の堀を通るルート)は、1912年(大正元年)の耕地整理によって、乙川合流部付近がやや東側に付け替えられたものです。

 上記以外にも、江戸時代には、鹿乗川の付け替え(矢作川の河床上昇により水はけが悪くなった鹿乗川の合流点を、洪積台地を割掘って2,500m下流に付け替えた)や、黄金堤の築堤(河口に近い須美川では広田川などの氾濫が左岸側(現在の西尾市吉良町)に流入していたが、1686年(貞享3年)に吉良義央によって左岸側に「黄金堤」が築かれた)などの河川改修が行われています。


 矢作川支派川の変遷|愛知県


 大規模特定河川事業 一級河川広田川(菱池遊水地)|愛知県


 愛知県内に築かれた室町時代の河川堤防の考察(安井雅彦、冨永晃宏)/『土木史研究. 講演集』第37巻、2017年、207-210頁|土木学会






六名堤(岡崎市久後崎町)


久後切れ及び治水工事関連石碑(溺死者追悼碑と三郡輪中治水碑/岡崎市久後崎町)


矢作川支派川(乙川、占部川、広田川、矢作古川)


菱池(幸田町)

※かつて菱池のあった土地は、明治時代に神野金之助(神野新田の干拓と牟呂用水<『かがやく豊橋』⑨>)によって干拓され豊かな水田に生まれ変わりました。そして一世紀半近く経った現在、この土地は、土地改良事業(ほ場整備)と治水事業(菱池遊水地)との連携事業によって、さらに付加価値の高い空間に生まれ変わろうとしてます。


矢作古川分派地点(西尾市小島町)


現地調査の相棒『HELLO CYCLING』


(今回の舞台)



(2023年09月03日)

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