岡崎&豊田と鉄道<三河国土学⑪>
★JR東海道本線と名鉄名古屋本線を軸に発展してきた岡崎と、名鉄・豊田線と愛知環状鉄道線の開業によって周囲との結びつきを強める豊田。両市の発展には、これからも鉄道インフラが不可欠です。
鉄道開業前夜の岡崎~豊田間の交通(矢作川舟運)
過去のブログ(矢作川の舟運と「塩の道」<三河国土学⑤>)で紹介したところですが、江戸時代の岡崎~豊田(挙母)間の交通は、矢作川の舟運に支えられており、明治時代になってもその果たすべき役割は依然として大きいものがありました。
この時代、矢作川河口の平坂湊(西尾市)では、上流から運ばれてきた物資が、平坂湊から江戸(東京)まで海路で輸送された一方、三河湾沿岸で生産された塩等は、平坂湊から上流に運ばれて、岡崎や古鼠(豊田市)または支川・巴川の平古(豊田市)などで荷揚げされ、そこから馬で足助(豊田市)経由で信州へと輸送されていました。さらに、矢作川や巴川は木材を運ぶ重要な輸送路にもなっており、木材は古鼠や百々(豊田市)にある大きな木材問屋で筏に組まれ下流に運ばれていました。
なお、矢作川の舟運は、明治用水や枝下用水の完成によって河川流量が減ったことや、中央本線(国鉄)を始めとする鉄道網の整備によって輸送手段としての役割が小さくなったことを受け、明治終盤~大正時代にかけてしだいに衰えていきました。
岡崎には何故、主要駅が2つあるのか?(三河地域の鉄道の幕開け)
こちらも過去のブログ(鉄道の歴史と東海道本線・蒲郡ルート<穂の国「東三河」⑥>)で紹介したところですが、三河地域に鉄道が整備されたのは、東海道本線の浜松駅(静岡県)~大府駅(愛知県)間が1888年(明治21年)9月に開業したのが最初で、そのルートは江戸時代の街道筋(主要交通ルートであった「東海道」筋)とは異なり、豊川から蒲郡を経由する海岸沿いのルートでした。
東海道本線が海岸沿いのルートになったのは、旧街道ルートに比べ蒲郡ルートの方が地形が平らで(勾配が小さく)蒸気機関車の運行に支障がなかったことが主たる理由であったようですが、その上で、渡河部(架橋位置)を乙川と矢作川の合流点より南側の地点とすること(合流点より北側の場合、鉄橋を2つ建設しなければならない)、用地買収を円滑に進めることなどの条件を検討した結果として、「岡崎駅」は岡崎市街地から南に離れた羽根村に建設されました。
一方、時が経って、官設(国有)の東海道本線が開通して約40年後の1927年(昭和2年)6月、愛知電気鉄道によって名古屋(神宮前駅)~豊橋(吉田駅)間を結ぶ約60kmの鉄道路線(現在の名鉄名古屋本線の南側区間)が全線開通しますが、この鉄道ルートは、もはや勾配の心配をする必要はなく、名古屋と豊橋を直線主体の線形で結ぶルート(=旧東海道筋の宿場町を経由するルート)に建設されました。当然、岡崎の最寄り駅も、市街地に近い場所に設置されました。ちなみに、岡崎市内には乙川の西側に西岡崎駅(現・岡崎公園前駅)、東側に東岡崎駅の2駅が設置されました。
こうした経緯から、岡崎市内には「JR岡崎駅」と「名鉄東岡崎駅」という2つの主要駅があり、JR東海道本線と名鉄名古屋本線という2つの鉄道路線(幹線)が、一世紀にわたって岡崎の発展を支えています。
JR岡崎駅(岡崎市羽根町)と名鉄東岡崎駅(同明大寺町)
名鉄は何故、岡崎~豊田間を直接繋いでいないのか?(豊田周辺地域の鉄道網形成の歴史)
豊田市は今でこそ隣接する岡崎市とともに「西三河地域の中心都市(中枢中核都市)」であり、世界最大級の自動車メーカー・トヨタ自動車の本社がある「日本を代表する工業都市」ですが、戦前までは「挙母町(ころもまち)」と呼ばれる小さな町でした
明治から大正にかけて、蚕糸、綿糸(ガラ紡)、陶土・石粉生産(トロミル)、ダルマ窯による製瓦などの産業によって挙母町は発展を遂げましたが、これを支えたのが三河鉄道(現・名鉄三河線)の開業でした。
前々回のブログ(西尾(西三河南部)と鉄道<三河国土学⑩>)で紹介した三河鉄道は、海側(刈谷→高浜→新川→碧南1914→松木島1926→吉良吉田1928→三河鳥羽1929→蒲郡1936)への鉄道路線延伸と並行して、山側(豊田市側)への路線建設も進めていました。
山側の三河鉄道は、刈谷~知立間(1915年)、知立~挙母(現・豊田市)間(1920年迄)、挙母~越戸間(1922年)、越戸~猿投間(1924年)、猿投~三河広瀬間(1927年迄)、三河広瀬~西中金間(1928年)と順次開業を続け、足助までの延伸工事も進められていましたが、用地買収の難航や世界恐慌の影響でこの区間の工事は中断、その後再開されることはありませんでした。
開業当時の当該路線の役割は、旅客輸送だけでなく、むしろ資材や物資の輸送に重点がおかれていました。若林・竹村(農作物の出荷、肥料・飼料の入荷)、土橋(磨砂・粘土・煉瓦・瓦・農作物などの出荷)、梅坪(砂利・磨砂・珪砂の出荷、ガラス材料の入荷)、越戸(砂利・珪砂・木節粘土・木材の出荷)、猿投(煉瓦・珪砂・木節粘土・農産品の出荷、肥料・鉱石の入荷)、枝下(珪砂・木節粘土の出荷)、三河広瀬(珪砂・木節粘土の出荷)など、三河鉄道の各駅は、地域の産業を支える貨物駅として大きな役割を果たしていました。
なお、開業した区間のうち猿投~西中金区間は、2004年(平成16年)に採算が取れなくなったとして、経営を引き継いだ名鉄によって廃止されています。
以上、豊田に最初の鉄道路線(現・名鉄三河線)が敷設された経緯を述べてきましたが、同時期、岡崎では市街地と駅(東海道本線・岡崎駅)とをつなぐため、路面電車が南北に走っていました。この路線(岡崎市内線)は、東海道本線開業から10年後の1898年(明治31年)に岡崎馬車鉄道としてスタート。その後、岡崎電気軌道と改称して1912年に路面電車の運転を開始。以降、北側に向けて延伸され、1923年(大正12年)には岡崎~岡崎井田間が開業していました。
さらに岡崎電気軌道は郊外進出を図るため、1924年に岡崎井田~大樹寺~(三河岩脇/分岐駅)~門立間を鉄道(専用軌道)にて延伸開業するとともに、1927年の三河鉄道との合併後、1929年(昭和4年)には三河岩脇~上挙母間を開業することで、三河鉄道は岡崎~挙母(現・豊田市)間の鉄軌道ネットワークを有することになりました(1941年に名鉄に合併されて後、岡崎~岡崎井田間は名鉄・岡崎市内線、岡崎井田~上挙母間は名鉄・挙母線、とそれぞれ呼ばれることとなります)。
この後、1930年代~1950年代にかけて(昭和初期から戦前・戦後を挟んで高度経済成長が始まった頃まで)の間、岡崎~豊田間を直接つなぐ民間鉄軌道ネットワークは存在し、機能していました(直通列車や特急列車も走っていたそうです)。が、これらの路線は、1960年代以降の名鉄の経営合理化方針によって廃止されていきました。その最大の理由は、路面電車が走る軌道が敷かれている国道248号の混雑(交通渋滞)が激しくなったことと、それに伴い道路の損傷が著しくなり軌道の補修に多額の費用がかかるようになったことにありました。こうして名鉄・岡崎市内線(+挙母線の岡崎井田~大樹寺間/市内線車両が一体的に運行されていた)は、モータリゼーションと合理化の波に飲まれたかたちで、1962年(昭和37年)に幕を閉じることとなりました。
また、名鉄・挙母線の残る区間(大樹寺~上挙母間)についても、岡崎市内線廃止で岡崎市中心部への鉄道ルートがなくなって乗客が減少したことや、国鉄岡多線(現・愛知環状鉄道線)の建設用地として区間の一部を譲渡することが決定したこと、さらには1972年(昭和47年)7月豪雨・台風6号により矢作川橋梁の橋脚が破損し不通(復旧後も15km/hの速度制限)を余儀なくされたことなどから、1973年(昭和48年)に廃止されることとなりました。これらの路線を受け継ぐかたちで、鉄道路線はそのままバス路線に置き換えられていきました。
明治~市制施行(とよたの起源)/豊田市
開業100年三河線挙母駅/令和2年度発見館企画展|豊田市近代の産業とくらし発見館
西三河の鉄道のうつりかわり/おぼえがき(ゆめてつどう)|Hatena Blog
岡崎市電ものがたり(日本路面電車同好会 会員 藤井建)/懇話会|岡崎商工会議所
名鉄豊橋市駅とTOYOTA STADIUM(豊田市)
トヨタ自動車(豊田市)
名鉄土橋駅と猿投駅(豊田市)
名鉄三河線(山線)
名鉄三河線 枝下駅跡①(豊田市枝下町)
名鉄三河線 枝下駅跡②(豊田市枝下町)
名鉄挙母線 渡刈駅跡(豊田市渡刈町)
豊田市の鉄道ネットワーク(現在)
現在、豊田市には名鉄・三河線以外に名鉄・豊田線と愛知環状鉄道線が走っています。名鉄・豊田線は、名鉄三河線の梅坪駅と名古屋地下鉄鶴舞線の赤池駅とを結ぶ路線で1979年(昭和54年)7月に開業。と同時に、名鉄・三河線及び地下鉄鶴舞線との間で相互乗り入れ(直通運転)を開始し、豊田市中心部と名古屋都心とを45分前後で直結しています。
愛知環状鉄道線は、JR東海道本線・岡崎駅(岡崎市)から新豊田駅(豊田市)・瀬戸市駅(瀬戸市)を経てJR中央本線・高蔵寺駅(春日井市)に至る愛知環状鉄道の路線で、1976年(昭和51年)4月に岡崎~新豊田間が開業(=国鉄岡多線)、1988年(昭和63年)1月には第三セクターとして全線が開業しています。【愛知環状鉄道線は、次回のブログで紹介したいと思います】
名鉄豊田線(名古屋市営地下鉄が乗り入れ)
JR東海道本線と名鉄名古屋本線を軸に発展してきた岡崎と、名鉄・豊田線と愛知環状鉄道線の開業によって周囲との結びつきを強める豊田。西三河地域にある2つの中心都市「岡崎と豊田」の発展には、これからも鉄道インフラが不可欠です。
(今回の舞台)
(2024年01月14日)