豊橋祇園祭<穂の国「東三河」⑯>
★平安京の時代も令和の現代も、この日本という脆弱な国土で暮らしていくためには、疫病や自然災害といった災禍と向き合い、これと折り合いをつけていかなければなりません。
4年ぶりに復活した打上花火
豊橋の夏の風物詩「豊橋祇園祭」は、手筒花火発祥の地として知られる吉田神社の祭礼で、今年は7月21日(金)から23日(日)にかけて盛大に執り行われました。
祭礼は、初日(金曜日)の手筒・大筒煙火奉納(宵祭)に始まり、2日目(土曜日)は豊川河川敷での打上花火(前夜祭)、そして3日目(日曜日)が例祭(浦安舞奉奏)と神幸祭という行程で進行。神幸祭では鎌倉・平安時代の出で立ちをした氏子衆の行列が、八ケ町内を練り歩きました。ちなみに、神幸祭の行列は神輿渡御(みこしとぎょ)と呼ばれますが、ここ吉田神社では、縁の深い源頼朝公にちなんで「頼朝行列」とも呼ばれています。
直近の3年間は、新型コロナウィルス感染症の影響により、規模の大幅縮小等を余儀なくされての開催でしたから、打上花火を含めた完全な形での祇園祭の開催は実に4年ぶり。氏子八ケ町(関屋、上伝馬、萱町、本町、三浦、指笠、札木、西八町)のみならず多くの市民が祇園の花火を観覧し、豊橋のまちに元気が戻ってきたように感じました。
豊橋祇園祭|豊橋祇園祭奉賛会
【動画と写真】夜空を焦がす手筒花火 豊橋祇園祭が開幕(2023/07/22)|中日新聞
吉田神社で手筒花火奉納(2023/07/22)|東日新聞
4年ぶり夜空彩る1万2000発(2023/07/23)|東日新聞
待ってました豊橋祇園祭(2023/07/24)|東愛知新聞
吉田神社の祭礼「豊橋祇園祭」
手筒花火と乱玉花火(2023.7.21)
※「手筒花火」:揚げ手が花火の筒を脇の横に両手でしっかりとかかえるように持ち、巨大な火柱を噴出させ、最後に「ハネ」と呼ばれる炎が、大音響とともに足元に噴き出す勇壮な煙火です。
豊橋祇園祭花火大会(2023.7.22)
頼朝行列(2023.7.23)
吉田神社の来歴と豊橋祇園祭
吉田神社の創建については諸説あるようですが、神社公式ホームページには、1124年(天治元年)に当地で疫病が流行した際、京都の八坂神社(祇園社)に端を発する牛頭天王(ごずてんのう)を勧請し疫病退散を祈願したのに始まるとされています。牛頭天王は、祇園精舎の守護神であり、疫病よけの神徳を持つとされています。
このため、京都の八坂神社と同様、祇園祭が吉田神社の祭りの名称となっており、また、疫病払いを祈願する祇園祭では、火の使用による悪霊放逐という考えが、やがて手筒花火の放揚に結びついたとも言われています。
本来、祇園祭の手筒花火は、五穀豊穣、無病息災、家運隆盛を祈念して、また打上花火は、天空の魔物を退治し、疫病を払うことを祈念して奉納されてきたものですから、まさに今年の祇園祭は、その趣旨にかなった、新型コロナウィルス感染症退散を祈願しての開催となりました。
吉田神社
吉田神社(豊橋市関屋町)
※吉田神社は源頼朝公の崇敬が殊に篤かったとされ、その後も、今川義元、酒井忠次、池田輝政、徳川幕府成立後も歴代の吉田城主により社殿の造営や修補がなされてきました。
「伝承三河伝統 手筒花火発祥之地」の碑
「祇園祭」の起源
京都祇園祭は、疫神怨霊を鎮める祭礼である御霊会(ごりょうえ)が起源で、もとは祇園御霊会と称し,869年(貞観11年)に全国的に疫病が流行した時、その退散を祈願して、牛頭天王を祀ったのが始まりとされています。
神泉苑(京都市中京区門前町)のホームページでは、祇園御霊会が次のように紹介されていますが、疫病だけでなく、富士山噴火や貞観大地震などの大規模自然災害も御霊会(祇園祭)の発祥に大きな影響を与えていたものと考えられます。
平安京の時代も令和の現代も、この日本という脆弱な国土で暮らしていくためには、疫病や自然災害といった災禍と向き合い、これと折り合いをつけていかなければならなのです。
祇園祭|八坂神社
祇園御霊会|神泉苑
(今回の舞台)
(2023年07月30日)