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茨城県にある二宮尊徳の功績

★青木堰をはじめ、尊徳から農村振興の手ほどきを受けた地域は全国600か村に達したと言われていますが、それ以上に、彼の考え方や勤勉さは、学校教育を通して、日本人の心をこそ耕してくれました。


 二宮金次郎の像が全国的に撤去される現象が進んでいる・・・という話題を耳にしました。そういえば、私が通った田舎の小学校にも、二宮金次郎像はありました。薪を背負いながら歩いて本を読む少年・金次郎の姿は印象深く、当時、校長先生か教頭先生から「勤勉の精神」を学んだこともうっすらとですが記憶しています。

 像そのものが老朽化してしまったり、或いは、小学校の建て替え(施設更新)に伴い、古くなった二宮金次郎像が撤去されるといったことは十分にあり得ることだと思いますが、一方で、撤去の理由として、「児童の教育方針にそぐわない」「子どもが働く姿を勧めることはできない」「戦時教育の名残という指摘」「『歩いて本を読むのは危険』という保護者の声」等があげられていることを知って、大変ショックを受けました。


 学校から「二宮金次郎」像が消えている理由(テンミニッツTV) ↓


二宮尊徳(二宮金次郎)とは

 二宮尊徳こと二宮金次郎(1787-1856年)は、江戸時代末期に関東から南東北の農村復興に尽力した人物です。金次郎の地元・神奈川県小田原市にある「報徳博物館」のホームページによると、彼の略歴が次のように紹介されています。

<幼少期>

 足柄平野の栢山村(小田原市)の比較的裕福な農家の長男として誕生、幼少時から教養のある父に教育を受け、一方では優しい母の慈愛を存分に得て、幸せに育ちました。

 しかし、不幸にして異常天候のため酒匂川の氾濫が度重なり、荒廃した田畑の回復もかなわず、父母は心身疲労で相次いで死去、一家離散という事態に陥りました。

<家の再興>

 金次郎は伯父万兵衛の家に預けられますが、逆境にもめげず卓越した才能を発揮します。

 作業の合間に、稲の捨て苗や菜種を空き地に植えて収穫、毎年その収益を増やして田畑を買い戻し、成人後間もなく家の再興に成功しました。

<財政再建・農村復興の道へ>

 その手法を生かし近親者の家政再建を行ったほか、奉公に出た小田原藩の家老・服部家で「五常講」という金融互助制度(のちの信用組合のはしり)をはじめ、服部家の立て直しを依頼されるなど、その才覚を表してきました。

 やがて、そのすぐれた発想と実践力が小田原藩主・大久保忠真から見込まれ、財政難に苦しむ藩主の身内である旗本の野州(栃木県)桜町領の財政再建を託されます。

<600の村々で>

 金次郎はこれを契機に財政再建・農村復興の仕事(報徳仕法)にまい進することになります。

 桜町領再建は苦節10年の難事業でしたが、その成功はたちまち近隣の注目を集め、諸領諸村からの仕法の要請が相次ぎ、復興事業や飢饉救済に多忙を極めます。

 晩年には幕臣に取り立てられ、日光神領をはじめ一部幕府領の再建に総力をあげて取り組みますが、かたわらすぐれた弟子たちを介して、諸家、諸領の復興指導も続けました。

 安政3年(1856)、70歳でその生涯を終えるまで、報徳仕法(二宮尊徳が主導した財政再建策の総称)の手ほどきを受けた地域は600か村に達したといわれています。


 報徳博物館↓


『代表的日本人』二宮尊徳

 冒頭で取り上げた「薪を背負いながら本を読んで歩く」少年・二宮金次郎像に関する記述は、尊徳の高弟で娘婿でもあった富田高慶執筆の『報徳記』が初出とされていますが、そこには「大学の書を懐にして、途中歩みなから是を誦し、少も怠らず」と記されています。その後、『報徳記』を基にした幸田露伴著の『二宮尊徳翁』の挿絵(小林永興画)で、はじめて「薪を背負いながら本を読んで歩く」少年・二宮金次郎の挿絵が使われたとのことです。『報徳記』を読まれた明治天皇が、宮内省に印刷させてこれを県知事などに与えられた事、さらには明治から昭和初期にかけて「修身」の教科書に一貫して取り上げられた事などもあって、二宮尊徳の功績と少年・二宮金次郎像は日本全国に広まっていきました。(以上、wikipediaを参照)

 また、明治を代表する思想家でキリスト教伝道者でもある内村鑑三は、英文で書いた外国人向けの人物伝『代表的日本人』(鈴木範久訳、岩波文庫、1995年)において、日本を代表する五人のうちの一人として、二宮尊徳を「農民聖者」として取り上げています。

 内村は尊徳の根本的姿勢を表わす言葉として、「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」、「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。術策は役に立たない」、「一人の心は、大宇宙にあっては、おそらく小さな存在にすぎないであろう。しかし、その人が誠実でさえあれば、天地をも動かしうる」、「なすべきことは、結果を問わずなされなくてはならない」などを紹介しています。

 「国土・インフラ教育」の先達である内村鑑三の著述や思想を、私はこれまで何度も取り上げてきましたので、内村が二宮尊徳の生き方に共感を覚えたことは、手に取るようにわかります。


 内村鑑三に学ぶ「寛容な民主主義とインフラ整備」の重要性(ルートプレス第48号、2016.06)


茨城県にある二宮尊徳の功績「青木堰」

 さて、そんな二宮尊徳の功績が、ここ茨城県にも存在します。それが、茨城県桜川市青木地内、一級河川桜川の上流部にある「青木堰」です。

青木村(現・桜川市青木)は江戸時代初期から幕府領で、1708年(宝永5年)旗本川副氏の知行地となりました。青木堰は古くから村の水田を潤してきた重要な施設でしたが、河川が急流であるため増水のたびに流され、多大な改修費を要していました。知行1500石余の小旗本であった川副氏は、やがて改修ができなくなり、堰は壊れたまま放置されるようになりました。その結果水不足が慢性化し、収穫量は激減、多くの農民は破産し、村から逃げていきました。

 このような状況を打開すべく、1831年(天保2年)、村の名主・館野勘右衛門以下37名は、村の救済を二宮尊徳に嘆願しました。これを受けた二宮尊徳は「村の荒廃は用水を失ったことだけが理由ではない。用水が無くなったなら、田を畑にして穀物を得るべき。貧村は村人の怠惰の結果だ。」と、一度は叱責しますが、舘野勘右衛門の涙ながらの訴えと、心を入れ替えた村人の働きに心を動かされ、青木堰の改修に乗り出しました。

 尊徳は、1833年(天保4年)、青木村復興事業の一つとして青木堰の建設に着手し、元禄期に比べ工期も短く費用も半分以下に抑えるという他に例を見ない工法により青木堰を完成させました。

 青木堰が完成したことによって、村は瞬く間に復興し、村民も本来の農業に励むようになりました。その後も堰は何度も損傷を受けるのですが、二宮尊徳の教えに従い、村民が一丸となって修復を続けてきました。

 現在は当時の堰があった場所よりも上流にコンクリート製の堰が造られ、旧堰は跡地として、「二宮尊徳先生仕法青木堰の記」とともに保存されています。


 二宮尊徳の顕彰碑(桜川市観光協会)↓


 歴史ある土地改良施設/青木堰(桜川市)(茨城県)↓


 農民救った青木堰再建 二宮尊徳手掛けた土木事業 桜川市(きたかんナビ)↓


心田を耕す

逆境に屈することのない農政家であり、かつ思想家でもあった二宮尊徳は、「心の田畑さえ開墾ができれば、世間の荒地を開くこと難しからず」、「私の本願は、人々の心の田の荒廃を開拓していくことである。天から授けられた善の種である仁義礼智を栽培し、善の種を収穫して、各地に蒔き返して、日本全体にその善の種を蒔き広めることである」という名言を残しています。

 青木堰をはじめとして、尊徳の報徳仕法の手ほどきを受けた地域は600か村に達したと言われていますが、それ以上に、彼の考え方や勤勉さは、学校教育を通して、日本人の心をこそ耕してくれたのではないかと思います。


 全国報徳サミット(桜川市)↓


 青木の堰(せき)~二宮尊徳先生の教えを生かして(桜川市立岩瀬小学校)↓



現在の青木堰(茨城県桜川市)


旧堰跡と記念碑(茨城県桜川市)


二宮尊徳先生仕法青木堰の記(茨城県桜川市)


薬王寺山門と二宮金次郎像(茨城県桜川市)

※大正5年の大洪水で破壊されてしまった旧堰部材を生かした山門は、1918年に完成。柱は水に強いケヤキ材で、堰の時代に桟を通した穴跡が残されており、二宮尊徳の偉業を後世に伝えている。


二宮尊徳の顕彰碑(茨城県桜川市)


(今回の舞台)


(2022年3月6日)

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