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水戸徳川藩の礎を築いた土木技術と「流域治水」

★江戸時代前期、那珂川・久慈川の水を治めた伊奈備前守忠次と永田茂右衛門・勘衛門父子。彼ら先達の土木技術が、「流域治水」を進める令和の現代に蘇ろうとしています。


 尾張、紀州と並び「徳川御三家」の一つに数えられる水戸徳川家。水戸藩は、1609年(慶長14年)徳川家康の第11子頼房(威公)が水戸に入封して成立しました。水戸藩の基礎は、初代頼房から2代光圀(義公)の時代に、城下町の建設、家臣団の編成、藩の支配体制の確立、検地や利水事業(用水路の整備や上水道の開設等)を通して整えられました。


那珂川右岸に「備前堀」を築造した伊奈備前守忠次

 水戸市を流れる那珂川流域は古くから穀倉地帯でしたが、水戸城下の農業用水不足を解消するため、また、千波湖の氾濫による水害から城下を守るため、那珂川右岸に用水路「備前堀」が築造されました。頼房公の命を受け、工事の指揮を執ったのは、関東郡代・伊奈備前守忠次(1550年~1610年)。武蔵小室藩初代藩主でもある伊奈忠次は、幕府の政治・経済の基本となる政策を担当し、幕府直轄の土木技術者として、関東平野の治水や新田開発に携わりました。東京湾へ注ぎ込んでいた利根川を現在の流れへと変えた工事(=利根川東遷)も、伊奈忠次ほか伊奈一族の行った事業の一つです。その技術は「関東流(伊奈流)」と呼ばれ、今日の関東平野の原型を築き上げたと言っても過言でもありません。

1610年(慶長15年)に工事が完成し、見事、延長12kmにもおよぶ用水路が引かれると、21か村、約1,000haにもおよぶ農地に水が行き渡りました。その功績を称え、用水路には、彼の名を取った「備前堀」の名が付けられました。備前堀は、現在でも農業用水路として重要な役割を果たしています。


 備前堀(水戸観光コンベンション協会)↓


 伊奈一族の治水(荒川上流河川事務所)↓


 治水技術の系譜 ~「関東流」と「紀州流」~(荒川上流河川事務所)↓


那珂川左岸に「小場江用水」を開発した永田茂右衛門・勘衛門父子

 一方、那珂川の左岸には、低地より一段高い土地が階段のように連なる河岸段丘が広がっており、川から水を引くのが困難でした。そこで、上流から水路を掘り、左岸一帯を潤す用水路「小場江用水」の開発が計画されました。頼房公の命を受け、小場江用水の開発を担当したのは、甲斐国出身で、諸国の金山や鉱山の開発に携わってきた永田茂右衛門・勘衛門父子。彼らは、沿岸一帯の流水量や土地の高低差を詳細に調査し、計画を立て、1656年(明暦2年)に用水路の着工・年内完成をみましたが、大水による流路の変化によって下江戸(那珂市)に設けた取水口からの取水が不能となってしまいました。このため、2年後の1658年(万治元年)、取水口を小場に変更する工事を行ない、あらためて28kmにも及ぶ用水路の開発を実現したのでした。小場江用水も、現在、農業用水路として重要な役割を果たしています。

 この他にも、永田茂右衛門・勘衛門父子は、久慈川筋の辰ノ口江堰や岩崎江堰、水戸城下の上水道であった笠原水道など、領内の治水・利水事業に数々の功績を残しており、1694年(元禄7年)には、2代藩主・光圀公から勘衛門(2代目茂右衛門)に対し、「円水」の称号が送られています。


 わが故郷の小場江↓


 ふるさと常陸大宮/常陸大宮市郷育読本(常陸大宮市)↓


 笠原水源(茨城百景・茨城観光百選・茨城の湧水 イバラキノート)↓


 水戸藩利水家・永田茂衛門一族の事蹟(農土誌)↓


中学歴史教科書が教える土木事業「信玄堤」との関係

 中学歴史教科書の記載内容を分析すると、いずれの教科書(検定済教科書7社、各全体頁数:250~300頁程度)も、歴史上の著名な人物や文化遺産等を主人公とする「政治史・人物史」「事件・出来事史」であることにはかわりなく、国土形成の歴史や社会資本の役割や効果、社会資本整備に携わってきた人々の苦労などは、教科書全体の中に散見される程度の記述量であるため、これらを体系的に学習することは難しいことがわかります。

 が、そうした中、複数の教科書が、テーマ(発展)学習やコラムのページを通して、国土(郷土)への働きかけに関する興味深い学習素材を提供してくれています。それが、戦国大名・武田信玄の領国経営と「信玄堤」の物語(ノンフィクション)です。

 ○読み物コラム「戦国大名の富国策-信玄堤」(育鵬社)

 ○武田信玄の領国支配~信玄堤(山梨県)~(清水書院)

 ○地域史「信玄堤」(帝国書院)

 武田信玄は甲斐国(現在の山梨県周辺)の領主で、周辺諸国と戦いながら、領地の治水事業を積極的におこなった武将です。代表的な治水事業に、甲府盆地を流れる釜無川と御勅使川の合流部の改修工事があげられます。この工事は、一般に「信玄堤」と呼ばれ、「自然の力を利用して川をおさめよう」とする考えのもと、堤防、分水、霞堤(かすみてい)、遊水機能などをもつ総合的な治水技術が用いられました。また、堤防上に神社を設け、祭りを開催し人を集め、堤防を踏み固めさせるなどの工夫をおこなったとも言われています。

 この武田信玄が領国経営に用いた土木技術(後に「甲州流」と呼ばれる)は、前出の伊奈忠次によって改良が加えられて「関東流(伊奈流)」となり、利根川東遷事業をはじめとする関東平野一円の開発(治水や新田開発)にも大いに役立てられています。

 また、甲斐国出身で鉱山開発の経験が豊かな永田茂右衛門・勘衛門父子は、常陸に普及していた伊奈流の土木技術と、甲斐の鉱山技術をミックスさせて、より優れた土木技術として昇華し、数多くの堰堤、溜池、用水路、上水道の整備を可能としたのでした。


 新しい中学社会科教科書が描く国土教育の未来(JICE REPORT vol.23 寄稿/2013.07)↓


 伝統的治水施設の保全と整備(甲府河川国道事務所)↓

 

 河川のQ&A/河川の歴史に係わる事項(いばらき建設技術研究会)↓


 武田信玄はじめとする甲州人たちは何故 偉大なテクノクラート(技術官僚)となったのか?(武将人物情報・史跡情報「歴史観」)↓


蘇る霞堤、久慈川・那珂川水系流域治水プロジェクトがスタート

 久慈川と那珂川では2019年の台風19号(令和元年東日本台風)で堤防が決壊。計約4800ヘクタールが浸水し、約3400棟が被害を受けました。こうした近年の激甚な水害や気候変動による水害の激甚化・頻発化に備えるため、久慈川・那珂川流域では、河川管理者に加え、県、市町村等の関係者が一堂に会する「久慈川・那珂川流域治水協議会」を設置し、関係機関が協働して『久慈川水系流域治水プロジェクト』及び『那珂川水系流域治水プロジェクト』を策定しています(2021年3月策定)。

 両プロジェクトでは、河川管理者が主体となって行う治水対策(河道掘削、堤防整備、遊水池整備等)に加え、流域の市町村などが実施する雨水貯留浸透施設の整備や災害危険区域の指定等による土地利用規制・誘導等、都道府県や民間企業等が実施する利水ダムの事前放流等を含め、流域全体で水害を軽減させるためのハード・ソフト一体となった「流域治水」メニューが位置づけられましたが、この中で、霞堤の整備も盛り込まれました。

 霞堤は、堤防のある区間に開口部を設け、上流側の堤防と下流側の堤防が、二重になるようにした不連続な堤防のことです。洪水時には開口部から水が逆流して堤内地に湛水し、下流に流れる洪水の流量を減少さます。一方、洪水が終わると、堤内地に湛水した水を速やかに排水することもでき、急流河川の治水方策としては、非常に合理的な機能と言われています。ちなみに霞堤の名前の由来は、堤防が折れ重なり、霞がたなびくように見える様子から、こう呼ばれるようになったとのことです。

 江戸時代の土木技術、武田信玄の「甲州流」、伊奈忠次の「関東流(伊奈流)」の土木技術が、「流域治水」を進める令和の現代に蘇ろうとしています。


 久慈川水系流域治水プロジェクト(常陸河川国道事務所)↓


 那珂川水系流域治水プロジェクト(常陸河川国道事務所)↓


 久慈川・那珂川水系流域治水プロジェクト(常陸河川国道事務所)↓


流域治水プロジェクト(国土交通省)↓ 


 霞堤(かすみてい)(国総研)↓


茨城県庁展望ロビーから水戸城下を望む


備前堀と伊奈備前守忠次像(水戸市)


甲斐武田氏発祥の地:湫尾神社・武田氏館(ひたちなか市)


小場江用水(ひたちなか市)


笠原水道(水戸市)


那珂川(水戸市)


(今回の舞台)



(2022年2月20日)

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