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庄内用水を巡る<尾張国土学⑭>

★人口230万人を抱える大都市・名古屋。かって名古屋市内の西部には最大4,000haの水田があり、これを支えていたのが庄内用水でした。

 

 「庄内用水」は一級水系・庄内川を水源とし、名古屋市の守山区・北区・西区・中村区・中川区・港区を流れる市内最大の農業用水(水路の総延長は約28km)です。

 名古屋市の南西部は、庄内川によって運ばれた土砂の堆積により形成された低湿地帯であり、古くから農業に適した肥沃な土地でした。織田信長が活躍した戦国時代、戦国大名たちは、領地の経済力(=国力=戦力)を高めるため、国内の農業や商業・鉱工業の振興、その礎となる治水や利水、道路整備に力を注いでいました。庄内用水もそのような戦国の時代背景の中で、元亀・天正年間(1570~92年)に開削されたと伝えられています。

 この後、江戸時代から明治時代にかけて、下流域(名古屋南部)での大規模な新田開発や庄内川の流況の変化を背景として、庄内用水は何度も取水する場所や流路を変えています。1647年(正保4年)には、熱田新田の干拓が始まり、庄内用水はさらに南へと延長されました。この時、木曽川の水を新たに開削する木津用水を利用して庄内川に導き、これを庄内用水に流入させています(もともと、用水の水源である庄内川は決して流量の多い河川ではありませんでした)。

 1877年(明治10年)には、黒川の開削とともに取水用の水門「元杁樋門」が現在の水分橋付近に建設され、矢田川の下を庄内用水がくぐり抜けた(伏越)後、庄内用水や黒川に分流される流路となりました。なお、元杁樋門は人造石を使用した樋門として明治43年に改修されています。

 庄内用水の農業用利水の最盛期は明治時代で、本流である大江筋・西江筋から分岐した用水の支流には、東井筋(江川)、米野井筋、中井筋(惣兵衛川)、稲葉地井筋(西井筋)があり、これらの支流からさらに枝分かれした大小の水路が網の目のように巡らされていました。1904年(明治37年)には北・西・中村・中川・熱田・港区の3,908haの美田を潤していたと記録されています。

 その後、都市化とともに庄内用水沿いの多くの農地は住宅や工場に変わったことから、東井筋と米野井筋は埋め立てられ、現在では中井筋と稲葉地井筋流域の農地(数十ヘクタール)の灌漑用水と、北区・西区の工業用水として、庄内用水は利用されている状況にあります。

 

 ちなみに、現在の庄内川流域は、発電用水を除きほとんどの地域で、東濃用水、愛知用水、名古屋市上水道用水など、木曽川水系からの取水により水需給を満たしている状況で、庄内川に対する新たな水資源開発の要請は無いとのことです。

 

 名古屋最大の用水 庄内用水|名古屋歴史ワンダーランド

 

 庄内用水|大名古屋暗渠録

 

 庄内用水元杁樋門/都市景観重要建築物等指定物件|名古屋市

 

 庄内用水元圦樋門|土木学会

 

 熱田新田・番割観音|名古屋市熱田区役所


 

庄内用水頭首工(水分橋)

庄内用水元杁樋門(名古屋市守山区瀬古味鋺前)

※1910年(明治43年)に築造(改修)された人造石を使用した樋門。1988年(昭和63年)に新樋門が築造され機能的には不要になったが、明治時代の貴重な産業文化遺産として保存され、産業考古学に携わる人々や市民の関心を集めている。


庄内用水緑道(名古屋市北区辻町) 

※庄内用水にそって遊歩道が整備されており、快適なサイクリングコースになっている。


庄内用水のあゆみ碑文(名古屋市西区江向町)


庄内用水遊歩道(名古屋市西区名塚町)


(今回の舞台)

 

 

(2024年06月02日)

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