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庄内川と新川の治水史<尾張国土学⑬>

★人工派川・新川と洗堰を基幹インフラとする現在の庄内川の治水システムは、江戸時代中期の「天明の治水」を起源としています。

 

庄内川のあらまし

 愛知県内には一級水系の河川(国土保全や国民経済上特に重要な水系で国土交通大臣が指定した河川)が5つあります。それは、①木曽川、②矢作川、③豊川、④庄内川、⑤天竜川(一部区間が静岡・愛知県境を流れている)のことで、①~③についてはこれまでのブログで紹介してきたところです。

 今回取り上げる庄内川は、その源を岐阜県恵那郡の夕立山(標高727m)に発し、岐阜県東濃地方の盆地を貫流し、濃尾平野を南下して伊勢湾に注ぐ一級河川で、その流域は、中部圏の中核都市名古屋をはじめ、近年都市化が著しい春日井市、尾張旭市や陶都の瀬戸市、多治見市、土岐市などの諸都市を擁し中部圏の経済、文化の基盤をなしています。

 歴史的な視点で見ると、庄内川は、古くは土岐川、玉野川、勝川、枇杷島川、番場川、一色川などと、その沿川の地名で呼ばれており、全川を通した名前はありませんでした(岐阜県内では今も「土岐川」と呼ばれています)。また、庄内川周辺には多くの古墳や条里制の遺構が見られることから、この川が古くから沿川の人々の生命と暮らしに大きな恩恵を与え、それが故に愛着を持って沿川の地名で呼ばれてきた・・・ということではないかと思われます。

 

 庄内川|国土交通省

 

 庄内川河川事務所(国土交通省中部地方整備局)




庄内川の流れ(名濃バイパス新川中橋から下流を望む)

 

庄内川に残る伝承/「十五の森」と「小田井人足」

 こうした特徴を持つ庄内川は、一方で、古くから幾多の洪水氾濫を繰り返す暴れ川で、沿川の人々は多くの被害を受けてきました。庄内川の沿川には、治水や洪水にまつわる伝承が残されています。

 一つは、水害から地域を守るために人柱となった少女の「十五の森」の悲話。室町時代のこと、現在の春日井市松河戸地区では、出水期になると毎年のように庄内川の堤防が決壊し、多くの被害を出していました。途方に暮れていた村人達は、「15歳の少女を生けにえとして捧げれば水神の怒りはおさまる」との陰陽師のお告げを受け、くじ引きによって庄屋矢野家の15歳の少女を人柱として差し出すことにしました。悲嘆のうちに白木の箱に入れられた少女は、頻繁に堤防が決壊する場所に埋められましたが、地上では少女の鳴らす鐘の音が7日7晩つづいたといいます。それからこの地には水害もなくなり、みな美田となって今日に至ったと伝えられています。

 もう一つは、「小田井人足」と言う言葉の由来。江戸時代のこと、庄内川が増水して危険になると、尾張藩は名古屋城下を水害から守るため、役人をつかわして川向こうの小田井(おたい)村の堤を切らせることを命じました。小田井村の人々は、堤を切れば自分たちの家や田畑が大被害を受けるので、表面上は一生懸命働くふりをし、実際には少しも能率を上げずにわざと時間をのばし、ひたすら水がひくのを待ちました。このような史実から、怠け者を表す「小田井人足」の語が起こったといわれています。現在、小田井の地には遊水地(小田井遊水地=庄内緑地公園)が整備され、庄内川下流域の洪水被害の軽減に寄与しています。

 

 十五の森跡|春日井市

 

 小田井人足、十五の森、人柱伝承|国土交通省庄内川河川事務所


十五の森跡(春日井市愛知町)


庄内緑地公園(名古屋市西区山田町大字上小田井)

※庄内緑地は遊水地(小田井遊水地)を利用した公園で、庄内川下流域の洪水被害の軽減に寄与している。

 

「天明の治水」と新川開削

 庄内川の治水事業は、1610年(慶長15年)徳川義直の名古屋城築城と共に始まり、着工4年後(慶長19年)に現在の堤防位置に堤が築かれたといわれています。

 しかし、江戸時代の庄内川流域では大水害が頻発しました。これは、尾張藩の奨励もあって瀬戸地方を中心に窯業が盛んになり、その原材料としての陶土の採掘や、磁器を焼きあげる燃料(木材)の需要が増加した結果、上流域の山林が荒廃して流出土砂が河床に堆積し、河床が上昇したためといわれています。また、庄内川の河床の上昇により支川の排水が悪くなり、庄内川右岸の地域(庄内川以北)は湿地化していきました。

 こうした背景のなか、流域住民からの治水対策を求める「直訴」が何度も行われ、尾張藩の勘定奉行・水野千之右衛門の建白書の提出などもあって、庄内川下流部右支流の合流点付近の湿地の改善と、庄内川下流部の洪水被害軽減等を目的に、新川洗堰の築造と新川の開削が行われました。

 この河川改修工事は、時の尾張藩主徳川宗睦の命により、1784年(天明4年)に着工。庄内川の北堤を長さ40間(約 73メートル)にわたって半分の高さに切り下げて、大水の時には庄内川の水をこの堰から分流し、新たに開削した新川(延長約20km、川幅60~70m、堤防高3~4m)を通じて伊勢湾に流れるようにする大工事でした。1787年(天明7年)に完成したこれら一連の治水工事は「天明の治水」と呼ばれています。

 

近年の治水事業

 庄内川・新川流域では、近代以降もさまざまな治水事業が実施されており、上流では砂防事業及び小里川ダム建設が、中・下流では小田井遊水地をはじめ河川改修事業が実施されています。

 また、2000年(平成12年)9月の台風14号及び秋雨前線による洪水は、既往最大流量を記録し、派川新川の破堤などにより、水害区域面積10,487ha、被害家屋34,049棟となる甚大な被害をもたらしましたが(東海豪雨)、この大水害を教訓として、庄内川(国土交通省直轄管理)及び新川(愛知県管理)では、河川激甚災害対策特別緊急事業により、河道の掘削、堤防の補強、橋梁の架け替え等の整備が行われています。

 この時、庄内川下流部の河川改修とあわせて洗堰は1m嵩上げされ、新川への越流量が大幅に軽減されました。また、新川治水緑地(洗堰緑地)は、洪水調整機能を高めるために放流路西側の農地を撤去、掘り下げて遊水池としての機能を高めるなどの改修がなされた後、野球場ほかのスポーツ施設やビオトープとして再整備されています。

 現在は、庄内川と新川の流域面積及び延長が大きく異なり洪水到達時間に差が出来るため、庄内川洪水が越流する前に治水緑地へ到達した新川の洪水を先に貯留することが可能となる。つまり、先に到着時間の早い新川の洪水が流入し、遅れて庄内川から越流した洪水を流入させる2方向から流入する複雑なメカニズムとなっています。

 

 庄内川水系河川整備基本方針|国土交通省庄内川河川事務所

 

 庄内川水系河川整備計画【大臣管理区間】|国土交通省庄内川河川事務所

 

 東海豪雨20年|国土交通省庄内川河川事務所

 

 庄内川・川名の由来/川名が語るふるさとの歴史|(株)葵エンジニアリング



新川洗堰(名古屋市北区落合町)


新川の流れ(丸中橋から上流を望む:名古屋市西区)

※新川はその名の通り、新しく造られた人工河川。庄内川の派川である新川は、名古屋市北区楠町の庄内川からの分派点を上流端とし、ほぼ庄内川の右岸を並行して南下し、伊勢湾に注ぐ。


水埜士惇君冶水碑(北名古屋市久地野南権現)

※勘定奉行・水野千之右衛門が行った庄内川の洪水を防ぐ治水工事の記念碑。1819年(文政2年)建立。


東海豪雨水害之碑(名古屋市西区あし原町)


(今回の舞台)

 

 

(2024年05月26日)

 


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