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常総水害の記憶と鬼怒川・小貝川の恵み

★茨城県西部地域を南北に流れる鬼怒川と小貝川。自然の猛威は今なお止むことはありませんが、伊奈忠次・忠治父子が手がけ、その後の先人たちによって引き継がれた両河川の治水・利水事業の功績は、現在の私たちの生活に大きな恩恵を与えてくれています。


脆弱な国土の上で暮らす日本人

地震、津波、火山噴火、洪水、土砂崩れなどの自然災害が頻発する国土の上で、私たち日本人は暮らしています。この10年間を振り返っただけでも、平成24年7月九州北部豪雨、平成26年8月豪雨(広島市の大規模土砂災害)、平成26年の御嶽山噴火、平成27年9月関東・東北豪雨(鬼怒川の堤防決壊)、平成28年熊本地震、平成29年7月九州北部豪雨、平成30年7月豪雨(西日本豪雨)、平成30年台風第21号、平成30年北海道胆振東部地震、令和元年房総半島台風(台風15号)、令和元年東日本台風(台風19号)、令和2年7月豪雨(熊本豪雨)など、大規模な自然災害が頻発していることがわかります。

 また、近年は、毎冬のように記録的な寒波が到来し、北海道・東北・北陸といった積雪寒冷地域だけでなく、首都圏や中部圏・近畿圏、さらには中国・四国・九州といった地域を含め、日本列島各地が記録的な大雪に見まわれ、交通の麻痺やライフラインの切断など、甚大な被害が発生しています。 私たち日本人は、イギリス、フランス、ドイツといった国々とは大きく異なる、このきわめて厳しい条件を備えた国土に働きかけながら、安全で快適な生活環境を築いてきました。この脆弱な国土の上で、日本人は何度も何度も大きな自然災害に見舞われながらも、その都度、諦めることなく努力して、これらの苦しみを乗り越えてきました。


常総水害(平成27年9月関東・東北豪雨)の記憶

 2015年(平成27年)9月9日から11日にかけて関東地方及び東北地方で発生した「平成27年9月関東・東北豪雨」。茨城県常総市付近では、9月10日12時50分頃に常総市三坂町地先で鬼怒川の堤防が約200m決壊、溢水7箇所、漏水等の河川施設被害が発生した結果、建物の全壊54件、大規模半壊1,649件、半壊3,574件、床下浸水3,385件、床上浸水168件、死者2名という甚大な被害となりました。

宅地及び公共施設等の浸水が解消するまでには概ね10日間を要し、浸水により約4,300人が救助されるなど、避難の遅れや避難者の孤立化が発生しました。取り残された家屋からヘリコプターやボートで救助される光景や、1時間以上にわたって電柱にしがみつき、手を振り続けていた男性の姿が目に焼き付いています。

 国土交通省関東地方整備局による堤防決壊箇所の緊急復旧工事は、上流側と下流側から24時間体制で施工され、2 週間で仮堤防と二重締め切りが完了しました。その間に大規模溢水箇所への今後の出水に備えた土嚢積みも完了し、最終的には、被災箇所(全体97 箇所)への応急対策が行われました。

 また、これと並行して、全国の地方整備局から派遣されたTEC-FORCE隊員による緊急災害対策活動(1日最大51台のポンプ車投入による約780万m3の排水、緊急車両の通行を確保するための放置車両の移動や流出土砂の堆積により塞がれた市道の側溝清掃、災害で発生した粗大ゴミの受け入れ地の提供、東京湾に流入した流木等の漂流物の現状把握と回収作業等)が行われました。

 なお、鬼怒川上流には、国土交通省管理の4つのダムが設置されていますが、これらのダムを操作することによって約1億m3 の洪水が制御されました。


 平成27年9月関東・東北豪雨関連情報(関東地方整備局)↓


 TEC-FORCE(緊急災害対策派遣隊)(国土交通省)↓



鬼怒川左岸21k付近の堤防決壊(資料:国土交通省関東地方整備局)


令和3年9月、鬼怒川緊急対策プロジェクトが完成

 常総水害を契機として、被害の大きかった鬼怒川下流域(茨城県区間)において、国、茨城県、常総市など鬼怒川沿川の7市町が主体となり、『鬼怒川緊急対策プロジェクト』が策定されました。

 鬼怒川緊急対策プロジェクトでは、①再度災害防止を目的とした、決壊した堤防の本格的な復旧、高さや幅が足りない堤防の整備(嵩上げや拡幅)、洪水時の水位を下げるための河道掘削などのハード対策とともに、②タイムラインの整備とこれに基づく訓練の実施、地域住民等も参加する危険箇所の共同点検の実施、広域避難に関する仕組みづくりなどのソフト対策とが一体となった治水対策が位置づけられ、平成27年度から対策がスタートしました。

 このうち、ハード対策については、令和3年9月15日の段階でそのすべてが完了しています。


 『鬼怒川緊急対策プロジェクト』について(関東地方整備局下館河川事務所)↓


 『鬼怒川緊急対策プロジェクト』進捗状況等について(関東地方整備局下館河川事務所)↓



復旧した鬼怒川堤防と決壊の碑(常総市)


鬼怒川・小貝川改修の歴史(鬼怒川・小貝川の分離)

 鬼怒川は、栃木県と群馬県との堺の鬼怒沼を水源とし、本川流路延長177kmを経て茨城県守谷市において利根川に合流する一級河川です。その流域は栃木・茨城両県にまたがり、全流域面積は1,761km2に及びます。

 一方、小貝川は、栃木県那須烏山市小貝ヶ池付近に源を発し、南下して五行川および大谷川を合わせ、茨城県常総市水海道地先で流向を南東に変えて、茨城県北相馬郡利根町押付新田地先で利根川に合流する一級河川で、その本川流路延長は112km、全流域面積は1,043km2です。


 鬼怒川・小貝川の概要(関東地方整備局下館河川事務所)↓


 今から約1000年前、鬼怒川も小貝川も、そして利根川本川も現在の流れとは全く異なっていました。昔の利根川は太日川といい、江戸湾(現在の東京湾)に流れ込んでいました。これを現在の流れに人工的に変えたのは江戸時代のことです。徳川家康が、1590年(天正18年)に江戸城に入府すると、江戸湾に流れ込んでいた利根川の流れを常陸川へと付け替え、千葉県の銚子へと流す現在の利根川水系の体系をつくりました。

 この利根川東遷事業を手がけたのが、那珂川右岸に用水路「備前堀」を築造した関東郡代・伊奈備前守忠次(1550年~1610年)。忠次は、幕府の政治・経済の基本となる政策を担当し、幕府直轄の土木技術者として、関東平野の治水や新田開発に携わりました。利根川東遷事業も、伊奈忠次ほか伊奈一族の行った事業の一つです。その技術は「関東流(伊奈流)」と呼ばれ、今日の関東平野の原型を築き上げたと言っても過言でもありません。

 鬼怒川・小貝川の分離は、この利根川東遷事業の一環として実施されました。当時の鬼怒川は、日光の山奥から流れ出て、茨城県下妻市からつくばみらい市の間で二手に分かれ、一方は東に向いて今の糸繰川を通じて小貝川に合流し、もう一方は現在の鬼怒川河道を南下した後、つくばみらい市細代から東流して杉下で小貝川と合流し南東に流れ、龍ケ崎市を経て常陸川(今の利根川)に合流していました。

 忠次が下妻市の南に堤防を築いたことにより、鬼怒川と小貝川の間を流れていた豊田川、大川(おぼがわ)の水位が下がって、周辺に広がっていた沼地は次第に少なくなりました。忠次の息子の忠政や忠治の時代になって、谷和原村寺畑から大山・板戸井の間の台地を切り開いて、延長約8kmの新しい河道を作り、鬼怒川を守谷市で常陸川(今の利根川)に直接合流させる工事が行われ、鬼怒川と小貝川は完全に分離されました。

 これにより、合流部下流に広大な一大沼沢地を形成していた谷原領、大生領一帯を洪水被害から守るとともに、新田開発が可能となったのです。さらに、鬼怒川筋では奥州会津地方などから江戸に向かう物資運搬路としての舟運が発達しました。

 なお、鬼怒川・小貝川の分離工事をはじめ、江戸初期における利根川東遷事業の多くが伊奈忠治の業績であり、この業績を称えて忠治を祀った伊奈神社が、つくば市真瀬にあります。また、合併してつくばみらい市となった旧筑波郡伊奈町の町名は、忠治に由来するものです。


 『鬼怒川の概要』及び『平成27年9月関東・東北豪雨』について(関東地方整備局下館河川事務所)↓


 鬼怒川・小貝川の歴史(治水)(関東地方整備局下館河川事務所)↓


 鬼怒川・小貝川の歴史(舟運)(関東地方整備局下館河川事務所)↓



鬼怒川・小貝川の分離(下館河川事務所HPより)


伊奈神社(つくばみらい市観光協会HPより)


鬼怒川・小貝川流域の開発と豊かな恵み

 鬼怒川・小貝川流域では、江戸時代、新田開発が盛んに行われ、多くの村と耕地が新たに誕生しました。利根川東遷の一環として行われた事業では、暴れ川である鬼怒川を小貝川と分離することによって、鬼怒川・小貝川の氾濫地帯であった土地の本格的な開発が可能となりました。また、鬼怒川・小貝川の流路改修や護岸工事が進められたことで、用排水路の開削が実施されました。

 伊奈忠治によって建設された福岡堰(つくばみらい市)、岡堰(取手市)、豊田堰(龍ヶ崎市・取手市)は関東三大堰(小貝川三大堰)と呼ばれ、その後も改築を繰り返しながら、現在もこの地に豊かな恵みをもたらしてくれています。

 小貝川と福岡堰の間を流れる用水の堤には、1.8km、約550本もの桜(ソメイヨシノ)が並び、桜の名所となっています。


 鬼怒川・小貝川の歴史(利水)(関東地方整備局下館河川事務所)↓


福岡堰の桜(つくばみらい市観光協会HPより)


 また、鬼怒川と小貝川にはさまれた下妻市と常総市に至る地域に「江連用水」が引かれたのは享保年間(1716~36)で、鬼怒川からの取水によって灌漑が始まりました。その後、鬼怒川の水位低下などにより廃溝となっていましたが、1829年(文政12年)に全区間の用水路が完成。その後も改修が続けられ、「宮裏両樋」は当時木製の樋門であったものを1900年(明治33年)、煉瓦造の樋門に改築したものです。江連用水の流路は昭和50年代に変更され、樋門は本来の機能を失いましたが、その後、国登録文化財に指定。現在は住民のウオーキングや憩いの場となっています。


 江連用水旧溝宮裏両樋(土木学会関東支部)↓



江連用水旧溝 宮裏両樋(下妻市)


(今回の舞台)



(2022年3月13日)


※常総水害から7ヶ月後(H28.4.14・16)、私は肥後熊本で震度7を2回記録するという過去にない大地震を経験し、その復旧に、現場の最前線で取り組むこととなります。


 最前線から振り返る平成28年熊本地震(セメント・コンクリート)↓

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