top of page

利根川東遷が県境の謎を解く

★利根川の東遷は、県境(国境)を変更し、首都東京発展の礎となりました。県境を調べていくと、その土地の地域的なつながりや、郷土への働き方の歴史が良くわかります。


 皆さんは小学校時代、47都道府県の位置と県庁所在地の名称を暗記したことを憶えておられますか。また、その時、「県境(けんきょう、けんざかい)」について詳しく学習されたでしょうか。今回は、県境についてのお話しです。


都道府県のはじまり

 現在の都道府県の原型は、明治維新(1871年)の「廃藩置県」によって生まれました(3府302県)。その後、府県の管轄地域を「藩」単位から律令国時代の「国」や「郡」を単位とする府県統廃合や区域の分割編入が繰り返され、1888年に現在の47区分(1道3府43県)になりました。

 ちなみに、律令国時代の地方行政区分を持ち出すのはあまりにも先祖返りでは?と思われたかもしれませんが、飛鳥時代から明治時代初期までの12世紀にわたり、「国」や「郡」は日本の地理的区分の基本単位として存続していましたから、この時の府県統廃合は、当時の日本国民にとってむしろ自然なものでした。


山地(尾根)や河川が県境の基本

 こうした背景があって、都道府県境は山地や峠の尾根、川、湖、灘、海峡といった律令国以来の自然地形で隔てられている場合が多いようです。ただ、中には市街地や集落、田畑の中に県境が引かれていて、標識がなければ都府県境と分からない地域もあります。

 例えば、いま私が住んでいる茨城県は、律令国時代の「常陸国」全域と、北西部の「陸奥国」白河郡依上郷(太閤検地以後常陸国久慈郡に編入された)、及び南西部の「下総国」猿島郡・結城郡・相馬郡などから成り立っています。

 県境については、北側の福島県境は阿武隈山地(阿武隈高原)の南端に相当し、県の北西部を南北に縦走する八溝山地が栃木県との県境を形成しています。県西地域の栃木県境は平野部であるため、市街地や集落、田畑の中に県境が引かれていますが、これらは基本的に、律令国時代の常陸国、下総国の境界に基づくものとなっています。

 一方、南側の千葉県境(一部、埼玉県境)は、ほぼ一貫して一級河川・利根川が県境の基本となっていますが、このうち上流側(西側)の境界は律令国時代の行政区分(常陸国と下総国の境界)とは大きく異なっています。


峠は境界にふさわしい場所

 かつて「峠」は国境(くにざかい)であり、その先は異郷の地でした。峠の向こうに、何があるのか、どんな人が暮らし、どんな食べ物があるのか、そこを越えると、全く違う世界が広がっている、そんな感覚を日本人は持っていたことから「峠」という文字を作り出しました。「峠」という字は中国で作られた漢字ではなく、日本で作られた国字なのです。

 また、峠は、これから先の無事を祈り、帰り着いた時の無事を感謝する場所でもあったことから、祠を設けている所が多いようです。


栃木県・茨城県境に鎮座する鷲子山上神社

 八溝山地にある鷲子山上神社は、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界に鎮座する神社。主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)であり、フクロウの神社として信仰を集めています。

 鷲子山は『常陸国風土記』に常陸国と下野国の国境であったことが記されており、古代から境界の地でした。廃藩置県で下野国側が栃木県の、常陸国側が茨城県の管轄となったため、1つの境内に栃木県側と茨城県側の2つの神社が並立することとなったようで、鳥居の前には「ここが県境」と書かれた看板が立ち、本殿の中央を県境が貫いています。


利根川東遷が千葉・茨城県境の謎を解く

 最後は千葉・茨城県境の謎について。現在の利根川は、関東平野をほぼ西から東に向かって貫流し太平洋に注いでいますが、近世以前においては、利根川、渡良瀬川、鬼怒川(毛野川)は各々別の河川として存在し、利根川は関東平野の中央部を南流し荒川を合わせて現在の隅田川筋から東京湾に注いでいました。天正18年(1590年)に徳川家康の江戸入府を契機に付替え工事がスタートし、分水嶺であった台地を削って新川通や赤堀川を整備した結果、利根川は太平洋に注ぐようになりました。この一連の工事は「利根川の東遷」と言われ、これにより現在の利根川の骨格が形成されました。

 つまり、律令国時代の常陸国は概ね鬼怒川・小貝川(毛野川・衣河)に沿って国境があり、それは当時の自然地形として妥当なものであったのです。


東遷の効果:舟運・新田開発・治水

 東遷により利根川水系は関東平野に巨大な水路網を形成し、関東地方だけでなく、外海ルートと結ばれた津軽や仙台など陸奥方面からも物資が盛んに行き交うようになりました。このため利根川は、日本きっての内陸水路として栄えました。

 また、利根川の東遷には、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進することや、東北の雄・伊達政宗に対する防備の意味もあったといわれています。ただ、開削された当初の赤堀川の幅は僅かに7間(13m)、文化6年(1809年)の拡幅後でも40間(72m)程度でしたから、赤堀川が利根川本川として本格的な治水効果を上げるのは、明治時代以降の河川改修を待つこととなります。

 なお、茨城県の中で、唯一、利根川の南にはみ出している五霞町の不思議な位置関係は、五霞町の北側を流れる赤堀川(現在の利根川)ではなく、南側を流れる権現堂川(現在は廃川)~江戸川が当時の本流であったことを示しています。

 いずれにしても、利根川の東遷は、県(国)境を変更し、首都東京発展の礎となりました。このように県境を調べていくと、その土地の地域的なつながりや、郷土への働き方の歴史が良くわかります。



茨城県と常陸国の範囲(常陸国総社宮HPより)


鷲子山上神社と栃木・茨城県境


利根川の東遷(左:東遷前、右:東遷後)



利根川の流れ(茨城県境町観光協会HPより)


権現堂堤の桜並木(埼玉県幸手市HPより)


(今回の舞台)



(2022年3月12日)

最新記事
アーカイブ
​カテゴリー
​熊本国土学 記事一覧
bottom of page