佐屋廻り交通の物語<尾張国土学⑦>
★「古代(延喜式)東海道」「津島湊と佐屋湊」「津島上街道」「佐屋路」など、佐屋廻りの交通インフラは、長い歴史の中で形態を変えながらも、いつの時代も重要な役割を果たしてきました。
東海道(七里の渡し)の迂回路「佐屋路」
前回のブログでも触れましたが、江戸と京都・大坂を結ぶ基幹道路「東海道(七里の渡し)」には、佐屋路(佐屋街道)と呼ばれる迂回路(脇往還)がありました。
東海道の宮宿(熱田)と桑名宿の間は、「七里の渡し」による海路が本ルートでしたが、この区間を主として陸路で結んだのが佐屋路です。佐屋路ルートは、移動時間はかかるものの、海路のリスク(海が荒天などで渡船できない場合がある、船が出ても安全・快適とは言えない場合があるなど)を回避することができる点で、七里の渡しの迂回路として盛んに利用されていたようです。
具体的なルートは、東海道宮宿(熱田宿)を出て伊勢湾北岸の岩塚宿、万場宿(以上、名古屋市)、神守宿(津島市)の3宿を経由して佐屋宿(愛西市)に至り、佐屋湊から木曽川の支流・佐屋川を下って桑名宿(三重県桑名市)に達する全9里(陸路6里+水路3里)の行程で、水路の部分は「七里の渡し」に対して「三里の渡し」と呼ばれていました。
江戸時代、安全性の観点から女性や子どもが多く通ったところから、佐屋路は別名「姫街道」とも呼ばれていました。また、伊勢参りや津島詣での人々も多数通行していたようです。
佐屋街道|Network2010.org
佐屋街道について|風人社
佐屋街道道標(名古屋市中区新尾頭)
※道標の南面には、「左 さや海道/つしま道」、西面には、「右 宮海道/左 なこや道」、東面には、「右 木曽・なこや海道」と彫られ、北面には、道標が1821年に佐屋宿の旅籠の人たちによって建てられたことが記されている。
万場の渡し跡(名古屋市中川区富田町)
※中川まちなか博物館「万場の渡し」|名古屋市https://www.city.nagoya.jp/nakagawa/page/0000078504.html
神守の一里塚跡(津島市神守町)
※佐屋街道で唯一現存する一里塚跡。塚の上には今もムクの老樹が立ち、往時を偲ぶことができる。
神守宿の町並み(津島市神守町)
佐屋三里の渡址と佐屋代官所跡(愛西市佐屋町)
もう一つの佐屋廻り「津島上街道」
東海道(七里の渡し)の迂回路には、佐屋路のほか、もう一つの選択肢がありました。それが「津島上街道」を廻るルートで、東海道宮宿(名古屋市熱田区)から美濃路を北上して名古屋宿を抜け、枇杷島で庄内川を渡り、新川橋(清須市)で美濃路と分かれ、そこから西進して萱津、甚目寺、木田(以上、あま市)、勝幡(愛西市)を経て津島の街(津島市)へ入り、その後佐屋川(※)左岸の堤道を通って佐屋宿(愛西市)へ至り、佐屋湊から三里の渡しで桑名宿(三重県桑名市)に達する行程でした。
津島上街道を廻るこのルートは、佐屋路以上に移動時間を要する行程でしたが、東北や関東地方から伊勢や西国へ向かう道中記を見ると、名古屋の街や津島神社などの見所が街道に点在するこのルートを通っているケースが少なくないようです。
現在は津島上街道に沿って名鉄津島線が整備されています。
津島街道|Network2010.org
津島上街道の起点の石道標(津島市本町)
※街道の始まりは津島の橋詰三叉路(津島神社参宮道入口)で,現在は石道標が残っている。
旧天王橋の説明板(津島市「天王川公園」内)と津島神社の大銀杏(津島市天王通り)
※江戸時代には津島神社の東側を天王川が南北に流れていて、長さ100m以上の天王橋という大きな橋が架かっていた。また、津島神社の大銀杏は天王川の西堤防に位置した。
佐屋川・天王川の水運(津島湊と佐屋湊)
佐屋廻りの道筋(伊勢湾の北岸を経由して京都と東国とを結ぶ幹線道路ルート)は、江戸時代以前からありました。古くは、古代(延喜式)の東海道。そのルートは、伊勢国の榎撫駅(現在の三重県桑名市多度町香取)から尾張国の馬津駅(現在の愛西市町方町松川)までは木曽三川の河口部を海路で横断し、そこから新溝駅(現在の名古屋市中川区露橋町)及び両村駅(現在の豊明市沓掛町上高根)を経由して三河国に繋がっていたようです。
つまり、古代(延喜式)東海道ルートは、桑名から木曽三川の河口部を海路で横断し、津島付近で上陸して、その後陸路で東進する行程でした。津島は、湊として佐屋より古く、鎌倉時代、津島は湊の機能を果たし、交通の要衝でした。室町時代には、津島牛頭天王社(現在の津島神社)が栄えて賑わいました。
しかし、津島湊は、佐屋に比べ桑名までの水路が一里ほど長かったこと、佐屋川(※)や支流・天王川の土砂堆積が進んだことにより、舟の通行に支障をきたすようになったことから、1666年(寛文6年)に尾張藩によって津島湊は廃止され、佐屋湊(佐屋路と三里の渡し)が主役の座につくことになったのです。
(※)かつて、佐屋川が流れていた場所には木曽川本流の河道がありましたが、1586年(天正14年)の大洪水によって木曽川が西に移ると、残された澪筋が開削整備され佐屋川となりました。しかし、その後は木曽川からの土砂流入によって水深が徐々に浅くなったため往来が困難となり、最終的には、明治政府が招聘したオランダ人技師・ヨハネス・デ・レーケによる木曽三川分流工事に伴い佐屋川は廃川となりました。現在、河道の跡地は耕地として利用されるとともに、木曽川用水の海部幹線水路がほぼ同じ場所に引かれています。
現在の天王川(津島市「天王川公園」内)
※天王川は現在は堰き止められて池になっているが,江戸時代までは、伊勢方面への主要交通路(佐屋川と合流する大河川)として機能していた。
津島湊の説明板と車河戸(津島市「天王川公園」内)
津島神社(津島市神明町)
海部幹線水路(愛西市山路町)
※木曽川用水を構成する農業用水路の一つ。木曽三川分流工事で廃川となった佐屋川に準えて、「佐屋川用水」の名称でも呼ばれる。
(今回の舞台)
(2024年04月14日)