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わが国・水戸藩・鹿島神宮、それぞれにとっての安政江戸地震

★幕末の日本を襲った安政江戸地震。わが国の歴史の大きな転換点ともなったこの巨大地震は、郷土・水戸徳川藩の命運を左右し、常陸国一宮・鹿島神宮にとっても信仰を広める出来事となりました。


幕末を襲った大地震・風水害・疫病

 わが国を襲った歴史上の自然災害を振り返ってみると、あることに気づくことができます。それは、江戸幕末期(1840~50年代)に、巨大な地震や台風が相次いで発生・襲来し、この国に甚大な被害を与えたということです。

 利根川が氾濫し江戸一面水浸しになった「弘化3年の大水害」(1846年)に始まり、善光寺本尊の開帳に全国各地から訪れた参詣者が数多く被害にあった1847年の「善光寺地震」(M7.4、死者8,200 人)、小田原が壊滅状態となった1853年の「小田原地震」(M6.7、死者24人)、翌1854年に立て続けに発生した「安政伊賀地震」(M7.25、死者1,500人余)、「安政東海地震」(M8.4、死者2,000~3,000人)、「安政南海地震」(M8.4、死者数千人)、そして1855年の「安政江戸地震」、1856年の「安政3年の大風災」と続く激甚災害の歴史。

 「安政江戸地震」は、江戸開府以来の大地震で、震源は江戸湾直下でマグニチュード7.0~7.1と言われ、死者7,400人、倒壊家屋14,300 戸という甚大な被害を及ぼしました。被害は、江戸の下町、本所・深川・浅草・下谷・小川町・曲輪内で大きく、また、地震後 30 ヶ所余りから出火し、焼失面積は 2.2 平方キロメートルに及んだとのことです。

 一方、「安政3年の大風災」は、猛烈な台風が江戸城のすぐ西を通り、江戸一帯を暴風と高潮が襲ったもので、前年の安政江戸地震からようやく立ち上がった江戸の町を破壊しつくしました。公の大きな被害としては、築地西本願寺の本堂の倒壊、高潮によって押し上げられた八百石船による永代橋の破損があげられる程度ですが、深川・洲崎・本所から品川にかけての地域が高潮で海のようになり、町方家財の流失破損はおびただしいものでありました。

 さらに、この時代の不幸は、自然災害だけにとどまりませんでした。この後、明治維新にかけては、疫病が蔓延したのです。1857年(安政4年)にはインフルエンザが流行し、翌1858年(安政5年)にはコレラ(当時の俗称:コロリ)が猛威をふるいました。死体が文字通り山積みして火葬場が処理しきれず、江戸はパニック状態になったそうです。

 『武江年表』は、コレラによる死者数を、「八月朔日より九月末迄、武家市中社寺の男女、この病に終れるもの凡そ二万八千余人、内火葬九千九百余人なりしと云う。実に恐るべきの病也」と記録しています。また、1862年(文久2年)には、麻疹が蔓延し、これも『武江年表』によると、「七月より別けて盛にして、命を失ふ者幾千人なりや量るべからず。三味の寺院、去る午年暴瀉病流行の時に倍して、公験を以て日を約し、荼毘の烟とはなしぬ。故に寺院は葬式を行ふにいとまなく、日本橋上には一日棺の渡る事二百に至る日もありしとぞ」という状況であったようです。

 1846年の大水害から1862年の風疹蔓延まで、わずか十数年の間に、このように凄まじい数の死者を伴った自然災害と疫病が頻発していたのです。


幕末・維新と自然災害・疫病の歴史

・1846年 弘化3年の大水害

・1847年 善光寺地震

・1853年 小田原地震

・1853年 ペリー来航

・1854年 日米和親条約

・1854年 安政伊賀地震

・1854年 安政東海地震

・1854年 安政南海地震

・1855年 安政江戸地震

・1856年 安政3年の大風災

・1858年 日米修好通商条約

・1858年~ コレラ大流行

・1858年 安政の大獄

・1860年 桜田門外の変

・1862年 麻疹蔓延

・1863年 薩英戦争

・1864年 池田屋事件

・1864 年 蛤御門の変

・1866年 薩長同盟

・1867年 大政奉還

・1867年 王政復古の大号令


大規模自然災害が歴史の流れをつくる

 一方、中学校・高等学校で学ぶ歴史教科書には、このような自然災害や疫病に関する記述はほとんど(まったく)ありません。ペリー来航、日米和親条約、日米修好通商条約、安政の大獄、桜田門外の変、薩英戦争、と続き、最後は大政奉還、王政復古の大号令で明治維新となる。日本の歴史において、幕末・維新とは、開国と尊王攘夷運動、そして幕府の滅亡でしかないのです。

 が、既に述べたように、幕末の史実はこれだけではありませんでした。これらの社会史・政治史とあわせて、大地震や風水害の歴史、コレラや麻疹の歴史があったのです。そしてこれらの自然災害や疫病は、幕末・維新に大きな影響を与えたはずです。国文学者の野口武彦氏は、彼の著書『安政江戸地震-災害と政治権力』(ちくま新書)の中で、「歴史書の多くには、安政二年(一八五五)の地震その他の災害があったとしてもなかったとしても、民衆が狂躁しようとしなかろうと、幕末維新は当然進行したかのように記述されている。これはどうもおかしい。地震は政治ドラマの舞台装置、風水害は照明・音響効果、疫病は群衆場面、「ええじゃないか」はバック・コーラスの乱舞・・・・・要するに背景扱いなのである。歴史はこういうものだろうか。またたとえば、民衆が歴史の主役だとでもいえば画面は変わるのだろうか。物性と人性とはどこか深い所で連動し、たがいに食い入っている」とまとめていますが、まさにそのとおりだと思います。

 安政江戸地震をはじめとする幕末の地震・風水害・疫病の歴史は、250年間戦争の起きることのなかった平和な時代(江戸幕府)を崩壊に追い込み、1923年の関東大震災は大正デモクラシーや大衆文化に彩られた当時の日本を大不況に陥れ、戦争への道に引きずりこんだ・・・。このように見てくると、大規模自然災害(天変地異)が歴史の流れを大きく捻じ曲げる働きをしてきたと言えるのではないでしょうか。


水戸藩にとっての安政江戸地震「藤田東湖の死」

 こうした状況下にあって、幕末の水戸藩は存在感を示していました。第9代藩主徳川斉昭公が、崩れゆく封建体制と困窮した藩財政の立直しをはかるため、水戸藩の「天保の改革」とよばれる藩政改革を推し進めていたのです。改革の要点は、①経界の義(田畑の経界(境界)を正す意味から全領検地のこと)、②土着の義(藩士を水戸城下から農村に移して土着させ武備の充実をはかること)、③学校の義(藩校・弘道館や郷校を建設すること)、④惣交代の義(藩主や家臣の一部が江戸に常住している「定府制」を廃止すること)の4項目でした。

また、斉昭公は国の基である農民が、度々の天災にも負けず、日夜汗と泥まみれに働く尊い姿に心うたれ、自ら青銅で作った農夫の像(農人形)を食事のたびに膳にのせ、最初の一箸のご飯を供えて農民の労に感謝していたそうです。

 1844年(弘化元年)、斉昭公は社寺改革など行き過ぎた政策を理由に幕府から致仕謹慎を命じられますが、1849年(嘉永2年)水戸藩政への参与を許され、1853年(同6年)ペリー来航を機に幕府の海防参与となり、ついで政務参与になります。しかし、攘夷論を強調した斉昭公は、幕閣と意見があわず、1857年(安政4年)に免ぜられます。この間、斉昭公は水戸藩の「安政の改革」を進め、軍備の充実と教育の振興を柱に、農兵の設置、反射炉の建設、郷校の増設など諸政策を実施しました。

 さて、「水戸藩にとっての安政江戸地震」とは何を指すでしょうか。それは、この地震(1855年)の際、小石川にあった水戸藩江戸屋敷で藤田東湖が母をかばって落命したことを指します。東湖は、斉昭公の腹心として、また水戸学の大家として有名で、本居宣長の国学を大幅に取り入れて尊王の絶対化を図ったほか、各人が積極的に天下国家の大事に主体的に関与することを求め、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的な基盤を築きました。後に、西郷隆盛が「藤田という人は君徳輔翼の上にも余程力のあった人である。夫れはドウであるかというと、東湖が死んだ後は烈公の徳望も東湖の在世ほどにはないということを聞いた。東湖が在世のときには烈公の徳望は一尺あるものも二尺に見えたが、東湖が死んでからはそう行かない。これを見ると藤田の輔翼の力は豪いものである」と語っているように、安政江戸地震によって藤田東湖が亡くなったことは、斉昭公率いる水戸徳川藩のその後、ひいてはわが国の幕末・維新に大きな影響を与えることになった・・・ということかもしれません。


 弘道館↓


 偕楽園↓


弘道館(水戸市)


偕楽園(水戸市)


東湖神社(水戸市)


鹿島神宮にとっての安政江戸地震「要石と鯰絵」

 わが国には、「地震が起こるのは、地下の鯰が暴れ、地面が揺れるためである」という迷信がありますが、こうした民間信仰の一つに、常陸国の鹿島神宮に要石(かなめいし)が置かれ、鹿島大明神が地震の起こらないように地下の鯰を押さえているとする「地震除けの神信仰」があります。安政江戸地震が起こったのは十月(太陰暦)で、神無月であったことから、日本中の神々が出雲大社に集合していたため、鯰を押さえる要石を司っていた鹿島大明神も鹿島を留守にしなくてはならず、その留守の間に地震が起こったというわけです。(コルネリウス・アウエハント著『鯰絵―民俗的想像力の世界』)

 安政江戸地震をテーマとして江戸時代に流行した鯰絵には、鹿島大明神が地震鯰を押さえ込んでいるもの、地震鯰を叱責しているもの、地震で被害を受けた人々が地震鯰を殴りつけているものだけでなく、震災復興景気をもたらした地震鯰を歓迎するもの、地震鯰の再来を期待するものや、また地震によって「持丸」(金持ち)も私財を灰塵に帰して無一物になり、世の中が平均にされるから「世直し」になるなどというものもありました。

 地震除けの神信仰は、兄弟神・香取大明神を祀る香取神宮(千葉県香取市)にもあり、現在も、鹿島神宮と香取神宮(千葉県香取市)には、要石が置かれています。鹿島神宮と香取神宮の要石が、それぞれ大鯰の頭と尾を押さえる杭だと言われていて、鹿島神宮の要石は凹型、香取神宮の要石は凸型の形をしています。


 鯰絵コレクション(国際日本文化研究センター)↓


 鹿島神宮・境内案内↓


 香取神宮・境内案内↓


大鯰の碑(鹿島神宮)


要石(鹿島神宮)


要石(香取神宮)


鯰を押える鹿島大明神(国際日本文化研究センター「鯰絵コレクション」)

※地震を引き起こすとされる大鯰が鹿島大明神に押さえつけられている図ですが、添字には、復興景気で儲かる職人のたちの地震歓迎の文言もあります。


(今回の舞台)


(2022年2月13日)

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