ええじゃないか発祥牟呂八幡宮<穂の国「東三河」⑮>
★変革の時代に生まれた「ええじゃないか」のエネルギーは、今もなお豊橋市民に受け継がれています。
歴史の転換点/幕末維新の日本と自然災害
わが国を襲った歴史上の自然災害を振り返ってみると、江戸の幕末期(1840~50年代)に、巨大な地震や台風が相次いで発生・襲来していることがわかります。
利根川が氾濫し江戸一面水浸しになった弘化3年の大水害(1846年)に始まり、善光寺本尊の開帳に訪れた参詣者が数多く被害にあった1847年の善光寺地震(M7.4、死者8,200人)、小田原が壊滅状態となった1853年の小田原地震(M6.7、死者24人)、翌1854年に立て続けに発生した安政伊賀地震(M7.25、死者1,500人余)、安政東海地震(M8.4、死者2,000~3,000人)、安政南海地震(M8.4、死者数千人)、そして1855年の安政江戸地震(M7.0~7.1、死者7,400人)、1856年の安政3年の大風災(諸説あるが、最も多いもので死者10 万人余)と続く激甚災害の歴史。
この後、明治維新にかけては、疫病の蔓延が著しく、1857年(安政4年)のインフルエンザ流行に始まり、翌1858年(安政5年)のコレラ(当時の俗称:コロリ)流行の際には、死体が文字通り山積みして火葬場が処理しきれず、江戸はパニック状態になったようです。さらに、1862年(文久2年)には、麻疹が蔓延しました。
1846年の大水害から1862年の風疹蔓延まで、わずか十数年の間に、このように凄まじい数の死者を伴った自然災害と疫病が頻発していたのでした。
しかし、私たちが初等・中等教育で学んだ日本史教科書(幕末の記述)には、このような自然災害や疫病に関する事項はほとんどありません。そこでは、ペリー来航、日米和親条約、日米修好通商条約、安政の大獄、桜田門外の変、薩英戦争、禁門の変、・・・と続き、最後は大政奉還、王政復古の大号令で明治維新となります。日本の歴史において、幕末・維新とは、開国と尊王攘夷運動、そして幕府の滅亡でしかありません。本当にそれだけだったのでしょうか?
安政東海地震、安政南海地震、安政江戸地震をはじめとする幕末の地震・風水害・疫病の歴史は、250年間戦争の起きることのなかった平和な時代(江戸幕府)を崩壊に追い込む大きな要因となっていたのではないか・・・、私にはそのように思えてなりません。
自然災害死史観と装置インフラの変遷-わが国を襲った自然災害とインフラ整備の歴史-
「ええじゃないか」発祥の地「豊橋」
この時代、倒幕運動の流れのなかで(時代の転換期のゆきづまった世相から救われたいとい願う民衆の行動として)、世直し一揆や打ちこわしの拡大、伊勢神宮へのお蔭参りの流行などが顕在化しました。
大政奉還がなされた1867年(慶応3年)、東海・畿内一帯の民衆の間では、熱狂的な「ええじゃないか」の集団乱舞が発生し、この「世直し」を期待した民衆運動は幕府の支配秩序を一時混乱におとしいれた・・・、といった記述も歴史教科書から読み取ることができます。
この「ええじゃないか」の発祥(地)については諸説あるようですが、ここ豊橋(牟呂村)が発祥であるとする説もあります(『留記』牟呂八幡宮神主森田光尋筆、豊橋市有形文化財)。
それによると、慶応3年7月14日、牟呂村大西(現・豊橋市牟呂大西町)に伊勢外宮のお札が降り、さらに翌15日に伊雑宮や内宮のお札が降ったことから、村人たちはこれは慶事の前触れだと考え、牟呂八幡宮神主に相談。神主と牟呂3組の庄屋たちは、お鍬祭の例にならって二夜三日の祭礼とすることとし、八幡宮では神事が行われるとともに酒が振る舞われました。村人たちは18日午後からお揃いの衣装で「300年は大豊年」の古歌をうたいながら踊りたわむれ、大群衆の声はお宮の森にこだましたとのことです。
この後周辺の羽田村・草間村・橋良村・吉田宿などでも次々とお札が降り(祭が行われ)、吉田宿での騒動は東海道を通じて忽ち東西へと広まっていった・・・とのことです。
ええじゃないか|牟呂八幡宮
牟呂八幡宮『ええじゃないか』お札まき
現在、牟呂八幡宮(豊橋市牟呂町字郷社に鎮座)では、『ええじゃないか』当時を再現しようと豊橋商工会議所青年部との共催で、毎年7月第2土曜日に無病息災、商売繁盛、事業繁栄の祈願祭が行われています。
今年は7月1日(土)に『ええじゃないか』お札まき(祈願祭)が開催され、牟呂小学校6年生児童による「ええじゃないか創作ダンス」の披露の後、境内の太鼓楼と本殿廊下の2ヵ所からお札を模した縁起物が撒かれ、御利益を求める人々で賑わいました。
牟呂八幡宮で4年ぶり全面「ええじゃないか」|東愛知新聞(2023.07.02)
梅雨空にお札舞い降りる「ええじゃないかお札降り」|東日新聞(2023.07.02)
地域を元気に「ええじゃないか!」豊橋・牟呂八幡宮お札まき|中日新聞(2023.07.02)
牟呂八幡宮(豊橋市牟呂町字郷社)①
牟呂八幡宮(豊橋市牟呂町字郷社)②
ええじゃないか発祥の地の由来
創作ダンスを披露する牟呂小学校の児童たち
『ええじゃないか』お札まきの様子
牟呂八幡宮
豊橋商工会議所青年部を中心とした「ええじゃないか豊橋」運動
2004年(平成16年)、豊橋商工会議所青年部の皆さんが、「ええじゃないか」と「豊橋」の認知度を高め、さらにまちづくりにつなげるために、「ええじゃないか豊橋」をキーワードに地域おこし事業をスタートさせました。
変革の時代を市民の力で加速させた「ええじゃないか」。その動きに日本で初めて火をつけた市民の力は、毎年10月に開催される「ええじゃないか豊橋まつり」をはじめ、今もなお豊橋市民に受け継がれています。
ええじゃないか豊橋まつり公式ホームページ
(今回の舞台)
(2023年07月16日)