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近代熊本と学校教育

★「熊本洋学校」や「済々黌」など、個性ある熊本の中等教育は地域指導者を育成し、小泉八雲や夏目漱石が教鞭をとったことでも知られる「五高」は、熊本社会の文化の向上に多くの寄与を果たしてきた。

 近代国家の形成にあたり、きわめて重要な役割を果たしてきた基盤(=インフラ)として、ハード分野の「交通インフラ」とソフト分野の「教育システム」を挙げることができる。  例えば、エマニュエル・マクロン新大統領(史上最年少のフランス大統領)の就任で活気付いているフランスという国家は、もとは土地固有の言語や習慣、歴史や文化も異なる多様な地域であったが、中世以降、少なくとも1000年の年月をかけて、歴代の王権、またそれに続く共和国の、統一に執着する強い意志によって形成されてきた。文化や芸術、宗教といった側面において早い時期から「例外的に」精神的な単一空間を形成していたフランスは、王権時代から共通言語(フランス語)や法制度を整え、さらに1789年のフランス革命以降は、統一的な教育システムの導入やパリを中心とする全国的な交通インフラの整備をすすめ、「単一にして不可分の共和国」を成立させた。  かつて、わが国の小学校教科書(国語)にも採録されていたアルフォンス・ドーデの『最後の授業』という作品(フランスが普仏戦争に負けて、ドイツ領になるアルザスで、先生が「フランス語を教えるのは今日が最後です」と生徒たちに話しかける感動の物語)があるが、この物語は近代ナショナリズムを背景として作られたものであった。アルザスは従来からドイツ語圏の地域であり、そこに住む人々のほとんどがドイツ語方言のアルザス語を母語としていた。物語に出てくる先生は、アルザス語を母語とするアルザス人に対し、フランス語を「自分たちのことば」ないし「国語」として教える立場にあったのだ。このように、学校教育は近代国家の形成に大きな役割を果たしてきた。  日本も同じ。明治新政府は、鉄道(交通インフラ)と学校制度(教育システム)の整備に力を入れた。  このうち、学校制度(教育システム)については、明治4年に廃藩置県が行なわれ、中央における政府の行政機構がつくられることとなり、教育行政の府として同年7月文部省が設置された。文部省は全国の学校を統轄したばかりでなく、積極的に国民を教育する責任を果たさなければならないとされた。  小学、中学、大学を設けるために「学区制」をとり、全国を5万3,760の小学区に分け、ここに小学校1校を、210小学区をもって中学区とし、全国256の中学区に中学校1校を設置することとし、32中学区をもって大学区とし、ここに大学1校、全国に8大学を設けることとした。(結果的には、完全実施には至らなかった)  また、教員養成のために師範学校を設け、卒業生を教師として小学校へ派遣する方策がとられた。  明治23年10月30日、明治天皇によって下賜された「教育に関する勅語」(教育勅語)は、国民道徳および国民教育の基本とされ、国家の精神的支柱として重大な役割を果たすこととなったが、その草案作成には熊本県出身の元田永孚(明治天皇の侍講をつとめた)や井上毅(大日本帝国憲法の起草者であり、後の文部大臣)らが大きくかかわった。

 上記の全国的な動きと並行して、ここ熊本では、改革派(後の民権派)がアメリカ人ジェーンズを招いて創設した「熊本洋学校」(明治4~9年)、熊本洋学校の系統を引く「(旧制)熊本県立熊本中学校」(明治12~21年)、徳富蘇峰が自宅で開いた自由民権の私塾「大江義塾」(明治15~19年)、内村鑑三も教壇に立ったキリスト教教育の「熊本英学校」(明治21~29年)など、西洋式自由主義教育で近代人の育成を目指す学校が数多く設立された。  一方で、これに危機感を抱いた国権派は、明治12年に「皇室中心、国家主義」を建学精神とする「同心学舎」を設立、明治15年には儒教的要素の強い「三綱領」(正倫理 明大義、重廉恥 振元氣、磨知識 進文明)を教育方針の中心に据えた私立「済々黌」を発足させた。以来「済々黌」は明治34年に「(旧制)熊本県立中学済々黌」、昭和23年に「(新制)熊本県立済々黌高等学校」と変遷を辿り現在に至るが、この間、明治21年には県議会の多数派であった国権派により、民権派色の強かった(旧制)熊本県立熊本中学校が事実上廃止に追い込まれる事態が起きている。以後、済々黌は私立学校でありながら実質的に公立学校のような位置を占め、ついには県立となり、そして更には県立熊本中学校(現在の県立熊本高等学校)、県立天草中学校(現在の県立天草高等学校)、県立鹿本中学校(現在の県立鹿本高等学校)、県立八代中学校(現在の県立八代高等学校)を分離独立させるに至る。  つまり、熊本県下の旧制県立中学校(新制県立高等学校)の源流は、私立「済々黌」にあるとのことであり、熊本県は全国的に見ても稀な中等教育の歴史を持つ。

 熊本洋学校とジェーンズ(熊本県観光サイトなごみ紀行)↓ http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=059&pre_page=3

 熊本県立済々黌高等学校(公式ホームページ)↓ http://seiseiko.ed.jp/

(熊本地震で倒壊した「ジェーンズ邸」)

(「大江義塾」旧跡)

(熊本県立済々黌高等学校)

 高等教育に目を向ければ、明治19年に発布された中学校令に基づき、福岡や長崎との誘致合戦の末、熊本に第五高等中学校(現:熊本大学)の設置が決定した。翌年、旧熊本洋学校や古城医学校の校舎を用いて開校し、明治23年には黒髪村の新キャンパスに移転。明治27年からは高等学校令により第五高等学校(五高)となった。同校は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)や夏目漱石が教鞭をとったことでも知られており、また、寺田寅彦や佐藤栄作をはじめとする卒業生は、日本の近代化をささえてきた。五高が熊本に置かれたことが、熊本社会の文化の向上に与えた影響は計りしれないものがある。

 五高とくまもと(熊本県観光サイトなごみ紀行)↓ http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=100&pre_page=5

 熊本大学五高記念館↓ http://www.goko.kumamoto-u.ac.jp/

(熊本大学五高記念館)

(旧第五高等中学校表門)

(今回の舞台)

(2017年08月06日)

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