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宗像堅固と「釜の迫の堀切り」(天草)

★道徳教育用郷土資料『熊本の心』に採録されている『白魚の来る川』の主人公・宗像堅固。私財を投入して完成させた「釜の迫の堀切り」は、地域の人々の豊かな生活を担保するものであった。

【道徳教育用郷土資料『熊本の心』から】 『白魚の来る川』-小学校3・4年-  ピチッ。ピチッ。  水をはじく音といっしょに水面で日光をキラリとはね返すものがあります。 「庄屋様、白魚でございます。あのほり切った川を、のぼってきたものです。」 「おお、白魚が来るようになったか。それは良かった。村の者や工事をした人たちで、分けて取るようにするがよい。」 「しかし、この川は、庄屋様がざい産を投げだし、大変な苦労をしてほり切られたものでございます。なんの私どもが・・・・・。」 「いやいや、これは村の人のためにほった川だ。 みんながカを合わせてくれたのでできあがった川だ。遠リょすることはない。」  そう答えたのは、天草くすうら村の庄屋、宗像竪固でした。元治元(一八六四)年、くすうらの山すそを流れる方原川の流れを変える工事が終わったときのことです。  それまでの方原川は、大雨がふると、まわりの山から流れ出た水が山のすそにぶつかってあふれ、大こう水をおこしていました。こう水のあと、あたりの田んぼはいつも石ころだらけになってしまうのです。  竪固は、庄屋としてこまっている村人を、どうにかして救わなければならないと考え、土地の様子をくわしく調べました。 (流れをさまたげるのはあの山だ。あの山をほりぬいて川の流れを変えて、早く海に入るようにすればよい。)  これは今までだれも考えつかなかった思い切った計画です。しかし、このことを村人や親せきの人に話すとみんな反対しました。 「かたい岩の山をほリぬくなんて、とてもできることではない。」 「失敗して、ざい産をなくしてしまうだけだ。」 しかし、竪固の気持ちは変わりません。 (たとえ失敗してもご先ぞ様にはずかしいことはない。わが家には「人のためにつくせ」という教えがあるはずだ。) と、ますます勇気をふるいおこしました。  その工事は、むずかしく、苦労の多いものでした。 六年ののち、のべ四万二千人の人手と三百八十両の費用をかけて、岩山をほりぬく工事はついに完成しました。喜びの声をあげる村人の目の前を、方原川の水は岩にぶつかり、しぶきをあげて不知火海の方へ流れていきました。  今も村の人は、このほりぬいた川を白魚川とよんで白魚をすくったり、あおのりをとったりしています。その岩かべには、竪固たちの心をきざみこんだように、岩をほりぬいたのみのあとが残っています。 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-  宗像竪固は、江戸時代の終わりのころ、天草のくすうら村を治める庄屋になった。家の前に広がっていた田んぼには、海の水が流れできたり、大雨がふって川があふれたりして、せっかく植えたお米がかれてしまうことが多かった。村人たちはそのたびにがっかりしていたので、宗像竪固は、思い切って川の工事をしようと決心した。工事を完成させるために、先ぞの貯金を使ってしまったが、田んぼにはお米が実るようになった。そして、川は大きな船も通ることができるようになったので、近くに住む人たちもとても便利になったと喜んだと言われている。

【宗像堅固の最大の功績「釜の迫の堀切り」】 宗像堅固は幕末・明治にかけて、楠浦村庄屋、戸長を務め、その間数々の功績をなした。これらの功績のうち、最大の事業が「釜の迫の堀切り」である。現在の楠浦小学校の東方の広大な水田は干拓地であるが、当時は付近を流れる方原川の洪水等によって十分な収穫を得ることが出来ない土地であった。  宗像堅固は、方原川の洪水による土砂の流れ込みや締切り堤防の破壊を防ぐために、川の流れを変える「釜の迫の開削」を決断し、元治元(1864)年、足かけ4年の歳月をかけて完成させた。4,383坪の岩山を手作業で掘削し、幅13m、全長545mに及ぶ人口川を人夫延べ4万1000人、鍛冶工延べ1,300人を動員して完成させたとあり、その祝いの唄が『掘り切り唄』である。

1. さても珍らし 楠浦普請 長さ五町に 底五丈  上で 二十と一間に 高さ九丈の岩山を

 のみや小槌や玄翁や かなてこ やまぎり 雁づめの  細工に 日々 鍛治五人 六とせの末にて ようように  いまでは白帆が はしりいる 2. それで田地も 倍ひろまりて たきぎ積み出し  こえとりも 船で門まで積入る 田畑作物 稔り増し  百姓 次第に便利よく 肴は堀切 川筋の  新規の白魚 青のりや 其の外いろいろ 添えまして  朝から晩まで 呑みくらす 3. 春は堀切 両山岸へ 桜品々 咲くころは  吉野初瀬や嵐山 ここに来しかと思われて  高き賎しき おしなべて 船や 磯辺や 山々に  朝間夕間のさかいなく 遠ち 近ち 花見に来る人は  つぼみのうちより 絶え間なし 4. 秋は川土手 楓紅をなして 龍田の詠の そのままに  風に散る葉の堀切に 流れ落ち合う錦川 うづまく水に ゆうゆうと 波のまにまに浮かみいで  四方の紅葉も色そえて 景色いやます 長堤 むかしにまさる 楠の浦   (宗像本家記録より)

 宗像堅固(本戸組楠浦村庄屋)↓ http://www.geocities.jp/amakusa_tanken/munakatakengo.htm

 天草の歴史年表1600~1867<江戸時代>↓ http://www.geocities.jp/amakusa_tanken/amaksa_nenpyou3.html

(釜の迫の堀切り)

(鑿河碑)

(鑿河碑の説明)

(掘り切り唄)

(堀切り上流の方原川と田園風景)

(今回の舞台)

(2017年5月5日)

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