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横島干拓(玉名)の歴史

★明丑・明豊・大豊開の堤防は、高さ5~6mの石積堤防が約4kmも連続し、壮大な景観を呈している。干拓の歴史(先人達による国土への働きかけの歴史)を伝える貴重な土木遺産である。

 熊本県には「八代郡築干拓」(<第56回>参照)と並んでもう一つ有名な干拓地がある。玉名市にある「横島干拓」だ。 干満の差の大きな有明海に面した玉名地域では、加藤清正公が肥後に入国して以来、精力的に干拓が進められてきた(<第22回>参照)。江戸時代後期には文化4年(1807年)の「一番開」から慶応2年(1866年)の「十番開」までの新田が造成された。近代に入ると、明治26年(1893年)に「明丑(めいちゅう)開」と「明豊開」、同28年(1895年)に「末広開」、同35年(1902年)に「大豊開」の干拓が続々と完成。度重なる潮害で決壊などの被害を受けたが、その都度、補修・改修が施され、昭和42年(1967年)の「国営横島干拓事業」の完工により、第一線堤防としての役割を終えた。  総延長約5.1kmに及ぶ(末広開~明丑開~明豊開~大豊開の)潮受堤防と樋門は、昭和2年の潮害後に改修されて以来ほぼそのまま状態を保っており、平成18年(2006年)に末広、明丑の堤防は県指定重要文化財に指定され、平成20年(2008年)には末広、明丑、明豊、大豊開の4つの堤防や樋門などが社団法人土木学会の土木遺産に選定されている。  実際に車(自転車)で横を走ってみるとよくわかるが、明丑・明豊・大豊開の堤防は、高さ5~6mの石積堤防が約4kmも連続し、壮大な景観を呈している。干拓の歴史(先人達による国土への働きかけの歴史)を伝える貴重な土木遺産である。

 旧玉名干拓施設(玉名市ホームページ)↓ http://www.city.tamana.lg.jp/q/aview/404/107.html   1.指定内容(WORD 約44KB)   2.玉名市の干拓遺産(PDF 約3MB)   3.干拓パンフレット     干拓パンフレット全体図(PDF 約1MB)     干拓パンフレット干拓年表(PDF 約395KB)   4.玉名市干拓関連施設調査報告書     玉名市干拓関連施設調査報告書(第1章~3章)(PDF 約7MB)     玉名市干拓関連施設調査報告書(第4章)(PDF 約7MB)     玉名市干拓関連施設調査報告書(第5章、附編、資料編)(PDF 約5MB)

 玉名横島地区の干拓(九州農政局ホームページ)↓ http://www.maff.go.jp/kyusyu/seibibu/kokuei/19/kantaku/index2.html

(明丑開の堤防)

(明丑開の堤防)

(大豊開の堤防)

(明豊開の堤防)

(六枚戸:末広開樋門)

(六枚戸:末広開樋門)

(国指定重要文化財:旧玉名干拓施設)

(末広開の堤防)

 横島干拓の歴史(先人達による国土への働きかけの歴史)は、本県(熊本県)の道徳教育用郷土資料『熊本の心』に、『ご先祖さまがつくった土地』というタイトルで採録されている。 【道徳教育用郷土資料『熊本の心』から】 『ご先祖さまがつくった土地』-小学校5・6年- 「おーい、翔太。じいちゃんは今から堤防の草かりに行くけん、おまえもいっしょに行かんか。もう四年生だけん、草かりもできるだろう。」 翔太のじいちゃんは年に数回、町の人たちと集まって堤防の草かリを続けています。 「うん、行く行く。じいちゃん、待っとって。」 翔太は、じいちゃんの軽トラックに乗りこみました。荷台には長いきゃ立やかま、電動のこぎりまで積んであります。  堤防に着くと、五十人ぐらいの人たちが、それぞれの道具を手に作業を始めていました。堤防は、高さが七メートル、長さは五・二キロメートルもあります。草かりをしていないところは、たけの高い草や木まで生えていて、堤防の姿がほとんど見えないところもあります。 「じいちゃんが草をかっていくけん、翔太はそれをまとめていってくれ。」 「うん。」 じいちゃんのスピードにやっと追いつきながら、翔太はたずねました。 「ねえ、じいちゃん、堤防って海の水が入ってこんようにつくるんだよね。もうここは干たくが終わっとるけん、この古い堤防はいらないんじゃないの。海の方に新しい堤防があるたい。」 「そうか。翔太にはこの堤防のことを、よく話しとらんだったな。ちょっと休けいしょうか。」  そう言ってじいちゃんはこしを下ろし、話し始めました。 「外平山のてっぺんから、辺りをぐるーっとながめると全部田んぼと畑になっとるだろう。」 「うん。展望公園のジャングルジムからよく見えるもんね。米やイチゴトマトを作っとるとだろ。玉名市はトマトイチゴの産地として全国でも有名だって、先生が社会の時間に言われたもん。」 「そうそう。でも昔はね、この辺は全部海だったんだぞ。外平山は有明海にうかぶ島で、横に長いから横島と呼ばれよった。今からおよそ四百年前、加藤清正というおとの様が有明海の干がたを干たくして農地にしようと言われたったい。昔はほとんどの人が農業で生活しよったけんね。当時は農地が少なくて、有明海でアサリや魚をとっていたけど、生活は楽じゃなかった。年ぐをはらったら自分たちの分はほとんど残らんだったそうだ。」 「でも、どうやって海を農地にしたと。」 「そらあ、おおごとだったんだぞ。大きな石で干がたに堤防をつくって、海水が入らんようにする。そして川の水を、調整する門をつくらんといかん。今みたいにショベルカーもサンドポンプもなかったけん、全部人間のカだけでつくったんだぞ。どろをいっぱい入れたカゴをかたにかついで、段々ばしごを登って運びよったそうだ。作業は潮が引いたときしかできんけん、同居一も夜も関係なく働いたんだ。」 「えーと、それ、『がたいないぶし』じゃない。地域の方がぼくたちの学校まで来て教えてくださってるよ。」 「そうそう、『潟担い節』は、ずっと歌いつがれて、干たく作業の大変さを伝えてきたんだ。段々ばしごは七メートルもあったけん、作業は命がけたい。実際に亡くなった人もいたそうだ。江戸時代から昭和四十ニ(一九六七)年まで干たくを四十六回もくり返して、これだけの農地ができたんだぞ。ご先祖さんのそんな苦労を忘れんように、子どもたちに『潟担い節』を教えよらすとたい。」 「それなら、横島はご先祖さまがつくった土地っていうことたい。ぼくたちのご先祖さまってすごいね。」 「お、分かるか翔太。すごいだろう。」 そう言って、じいちゃんはにっこり笑った後、さらにいろいろな話をしてくれました。大きな台風のたびに堤防がこわれ、家や田畑が水びたしになったこと。また米を作ることができる状態にするまで何年もかかったこと。それでも人々は立ち上がリ、堤防を作り直すことで、農地と家族の命、そして生活を守リ続けてきたのです。  ふつう、役目を終えた堤防は、とりこわしたリ道路にしたりします。でも、横島の人々はこの堤防を残したいという思いから、とりこわさず今でも草かりや清そう作業を続けているのです。 「堤防を見るたびに、じいちゃんはご先祖さんのことを思い出すとたい。じいちゃんのとうちゃんかあちゃんも昭和ニ(一九二七)年の大水害で何もかもなくしとらすけんね。」  じいちゃんはしばらく堤防を見つめ、 「さあ、最後まで草をかってしまおうか。」 と言って、またてきぱきと草かりを始めました。  しばらくたって、じいちゃんの草かり仲間が、あわてた様子でかけよってきました。 「あー、おったおった。今、電話があったばい。やった、やったばい。」 「なんね、なんのことね。」 「堤防が、国の重要文化財に決まったばい。これからも、ずっと残せるぞ。」 それを聞いていた周りの人たちからは「やったー」というかん声があがりました。みんな大喜びで両手を上げたり、だき合ったりしました。じいちゃんは目に少しなみだをうかべて、うんうんとうなずいていました。  ずいぶん長く話していたのでしょう。しずむ夕日が有明海をオレンジ色に染めていました。 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-  玉名市横島町で伝えられている民よう「潟担い節」。「潟担い」とは干たく工事で堤防を築く際に、がた土を堤防の上に積み上げていく作業で、昭和初期頃までは機械を使うことなく人のカで行われていました。「潟担い節」は、この作業の中で働く人の息を合わせるために歌われた仕事うた、作業うたとして始まったと言われ、九州各地に伝えられています。明治以降に各地でおどリがふり付けられ、三味線や太この鳴物入りで広まりました。現在では「横島潟担い節保存会」が結成され、地域の行事でひろうされるなど伝統芸能として保存・けい承されています。

(今回の舞台)

(2017年4月23日)

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