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2017年・新春 熊本城稲荷神社(土木の神様)に詣でる

★土木・建築の神様を祀る「熊本城稲荷神社」。熊本城をはじめ、治水、街道の整備などに力を尽くして熊本の基礎をつくりあげられた加藤清正公の遺徳を偲ぶ。

穏やかな正月を迎えました。今年も「熊本国土学」を綴って参ります。

2017年・元旦、熊本城本丸東側に隣接して鎮座している「熊本城稲荷神社」に詣でました。 熊本城稲荷神社は、「加藤清正公が肥後の国主としてご入国(天正16年・1588年)にあたり、熊本城の守り神として勧請され、以来四百年の歴史の中、正一位の御神格をもって、世の多くの人々に御神徳(生活守護)を授けておられます」。(神社公式HPによる)

 熊本城稲荷神社(公式HP)↓ http://www.k-inari.com/

ご祭神は、次の通り多彩で、地元では"白髭さん"と呼ばれ、市民に親しまれています。  ・白髭大明神(生活守護の神)  ・緋衣大明神(火伏・学業・芸能の神) ・玉姫大明神(良縁・縁結びの神) ・通力大明神(金運・勝負の神) ・辰巳大明神(安産の神) ・猿田彦大神(開運・交通安全の神) ・子安大明神(子育ての神) ・白菊大明神(商売繁昌の神) ・貞広大明神(土木・建築の神) ・源作大明神(五穀豊穣の神) 他

 特徴的なのは、「貞広大明神」。土木・建築の神様が祀られています。これは、加藤清正公が、肥後国領主として入国以来、熊本城をはじめ、治水、街道の整備などに力を尽くして熊本の基礎をつくりあげられた、ことによります。

 日本を代表するノンフィクション作家・司馬遼太郎は、難治の国「肥後」と加藤清正公について、次のように語っています。(『この国のかたち(二)』より)  「肥後の難治は、国人(国衆〉の強勢さにあった。五十二人の国人がそれぞれ地侍・百姓をひきいて、国中に割拠していた。(中略)  秀吉は佐々成政に肥後の難治ということを十分言いきかせておいた。  まず“一揆をおこさせるな”と厳命した。かつ“かれらの所領は安培せよ”“三年は検地するな”とも言いふくめた。  成政にとってむりというものだった。入部はしてみたものの、国人たちが肥後のすみずみまで持っていたため、成政は自分の家臣団に知行をあたえることもできず、このぶんでは新領主も家臣団ももろともに立ち枯れて餓えざるをえなかった。  成政は粗暴なほどに果敢な男だった。かれは秀吉の命にそむき、生きるがために五十二人衆の所領を削るべく検地に踏みだした。このため肥後は騒然となった。  まず、隈部親永という国人がたちあがった。いまの菊池市の中心にあった隈府城の城主で、地主として八百町歩の田地をもっていた。  そのあと、反乱は肥後全円にひろがった。(中略)  国人たちの動員カは、「二万計もありけるにや」といわれた。これに対し佐々方はわずか二、三千の人数にすぎなかったが、成政は戦いの玄人だけによく戦った。戦いは八月にはじまり、十二月になってから、秀吉は周辺の諸大名に出兵を命じ、ようやく一揆を鎮圧させた。  この結果、秀吉は一挙に三つの果実をえた。まず、一揆加担の者約千人を斬首し、所領をとりあげることで、肥後の中世を一日で去らせ、一挙に近世型領主制を確立したことである。また成政を上方によびよせ、尼崎で切腹させることによって、肥後人のうらみをわずかながらもやわらげた。さらには、成政という年来の“敵”をのぞくこともできた。  ただこの秀吉による強烈な外科手術が、その後の肥後の人心に影を残さなかったとはいえない。 肥後の政治史は、劇的である。このような肥後人の鬱憤が、ただ一人の加藤清正(一五六二~一六一一)の登場によって、カタルシスをおこさせた。  このことは、清正の政治的人格の効用という以上に、肥後人の向日性として考えていい。 「ムシャ(武者)がよか」  という古い熊本弁は、カッコイイという意味として使われてきた。男に対してだけでなく、女ぶりが一段とあがるカッコウに対しても、つかわれる。 『日葡辞書』には、muxaburigayoi(武者振りが良い)ということばで載っている。“ムシャがよか”という一点で肥後人の心は窓があき、風が通るのである。 “ムシャがよか”というのは、単に武勇があっていさぎよい、というだけでなく、その人物に表裏がなく、正直で陰険な政略を用いず、また晦渋でない、ということも重要な条件にちがいない。まさに清正こそそういう存在だった。  清正は、成政のあと、肥後半国二十五万石をもらうまでは、三千石ほどの小身にすぎなかった。かれは肥後に入ると、肥後人や佐々の遺臣を大胆に採用した。このことが肥後人の痛みをまずやわらげた。  土木と財政に長じていたことも、かれの印象を大きくした。  ひろく農業土木を興して、灌漑面積を大きくし、百姓の次男・三男のために耕地をつくった。このことは肥後半国という広域行政でこそできることで、五十二国人の割拠時代という中世ではやろうにも不可能だった。農民たちはむかしを懐しまなくなった。  さらに、清正がやった奇跡は、熊本城という、肥後人がみたこともない巨大な城郭を出現させたことである。堂々たる外観と、日本一の防御力をもったこの城ができたときほど、肥後人は清正に“ムシャがよか”を感じたことはなかったろう。  戦前、旅廻りの劇団が熊本で芝居をするとき、清正劇さえやれば必ずあたるとされた。清正劇をやらないときは、とりあえず烏帽子の兜に片鎌槍をかかえた人物を舞台に登場させ、 「さしたる用はなけれども、あらわれ出でたる加藤清正」 と、大見得を切らせてひっこませたといわれる。清正の治世は二十余年にすぎなかったが、ながく肥後人の心に風を通しつづけたといえるのではないか。」

 加藤清正公が築城した熊本城は、昨年4月の熊本地震で壊滅的な被害を受けましたが、年末には、熊本市と関係機関(国土交通省、文化庁、熊本県)によって、「熊本城復旧基本方針」が作成されました。  基本方針は(1)被災した石垣・建造物等の保全(2)復興のシンボル「天守閣」の早期復旧(3)石垣・建造物等の文化財的価値保全と計画的復旧(4)復旧過程の段階的公開と活用(5)最新技術も活用した安全対策の検討(6)100年先を見据えた復元への礎づくり(7)基本計画の策定・推進で構成され、2019年中の復旧を目指している天守閣にはエレベーターやスロープが設置される予定です。

熊本城公式HP↓

 ちなみに、熊本城と同様に、昨年4月の熊本地震で壊滅的な被害を受けた「阿蘇神社」を再興したのも、加藤清正公でした。文禄の役(1592-3)のとき、肥前名古屋城(現佐賀県鎮西町)で朝鮮出兵の指揮をとっていた豊臣秀吉は、阿蘇大宮司家が謀反を企てたという讒言を信じ、阿蘇家の幼主惟光に責任をとらせ花岡山で自刃させました。惟光は無実の罪をきせられ、年僅かに十二才にしてこの世を去り、阿弥陀寺(熊本市)に葬られました。この時(関ヶ原の戦い後)、清正公は惟光の弟の惟善を阿蘇大宮司職に復帰させ、肥後一の宮・阿蘇神社(阿蘇市宮地)を再興されたのです。  なお、阿蘇神社の災害復旧工事は昨年11月1日に着工され、神殿をはじめ国指定重要文化財6棟は、国庫補助事業により7年かけて実施される予定です。

 阿蘇神社公式HP↓ http://asojinja.or.jp/

(土木・建築の神様「貞広大明神」)

(復旧を待つ天守閣と宇土櫓)

(復興城主になりました)

(熊本城稲荷神社・2017初詣) http://www.k-inari.com/

(加藤神社・2017初詣) http://www.kato-jinja.or.jp/

(清正公の崇敬を受けた藤崎八旛宮・2017初詣) http://www.fujisakigu.or.jp/

(清正公により再興された阿蘇神社・2017初詣) http://asojinja.or.jp/

(今回の舞台)

(2017年1月3日)

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