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肥後の浄土信仰と行基をつなぐ「阿弥陀」の不思議な縁

★奈良時代の僧「行基」は、利他行を布教する傍ら、その実践のために、農業用の池や溝を掘り、道を拓き、橋を架けるなど、民衆を率いて土木事業を進めていった。熊本市にある「阿弥陀寺」は、行基により創建されたといわれている。

繰り返し述べてきたことであるが、先人たちが国土に働きかける努力を行ってきてくれたおかげで、私たちは国土から生活の安全性や利便性を得ることができている。森林、田畑、河川、水道、道路、鉄道など、国土への働きかけの歴史とその恩恵のもとに、私たちは暮らしている。そして、こうした内容(国土への働きかけの歴史)は、中学校の社会科(歴史的分野)教科書においても、少なからず取り上げられている。  例えば、古代では、古墳建設と大和朝廷の国力【古墳時代】、渡来人が伝えた土木技術(ため池造成など)【5世紀頃】、太宰府防衛と大野城・水城の建設【7世紀】、平城京の建設、中央と地方を結ぶ幹線道路(七道)の整備、土地開墾と墾田永年私財法、行基による橋や用水路の整備【以上、奈良時代】、土地開墾と荘園【平安時代】といった歴史的事象がこれに該当する。

 「歴史教科書が教える公共事業と自然災害」↓ http://media.wix.com/ugd/72a776_691239a8248a40138d183891b3a6493c.pdf

 こうしてみると、古代のインフラ整備(国土への働きかけ)においては、大陸伝来の仏教と土木技術が大きな役割を果たしていたことがわかる。当時、遣唐使として唐に渡った僧たちは、大陸の最新の仏教の教理を学ぶだけでなく、先進的な土木の知識や技術を身につけ帰国した。玄奘三蔵に師事して法相教学を学んだ「道昭」もその1人。 そして、この道昭を師と仰いだ「行基」は、利他行(衆生の救済を実現しようとする大乗仏教の教え)を布教する傍ら、その実践のために、農業用の池や溝を掘り、道を拓き、橋を架けるなど、民衆を率いて土木事業を進めていった。(その後、行基は、聖武天皇によって我が国最初の「大僧正」に任じられ、官僧の頂点に立つこととなる。)

行基による公共事業(国土交通省HP)↓ http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1111c10.html

「民衆の導者」(九州工業大学名誉教授・出光隆氏)↓ http://www.st.nagasaki-u.ac.jp/ken/matsuda/activities/minshu-no-dousha.pdf

この行基ゆかりの浄土宗寺院が熊本市にある。その名は「阿弥陀寺」。正式名称を大宝山来迎院阿弥陀寺(熊本市中央区)という。行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌『行基菩薩』によると、阿弥陀寺は大宝年中(701~703)、行基により創建されたといわれている。かつて万日山(まんにちやま)は別名阿弥陀寺山とよばれ、ふもとの集落は阿弥陀寺村といわれるほど栄えていた。もともとは法相宗の大寺院で、万日山山上に奥の院、本堂があり、現在来迎院(別院)があるあたりは僧坊があったと伝えられている。その後鎌倉時代に「聖光上人」の高弟・蓮阿が再興して、浄土宗の寺院となった。

聖光上人とは、浄土宗の第2祖。字は弁阿・聖光房という。宗祖・法然上人の許で修学した後、故郷筑前に戻り、筑後国・肥後国を中心に念仏の教えを弘めた。九州西北部を中心に活躍したため、鎮西上人とも尊称される。

 そして、この聖光上人が白川の辺に白川山往生院として開山したと言われているのが「往生院」。その後、加藤清正公によって古鍛冶屋町に移され、現在は、熊本市西区池田において、無量寿山家安寺という山号・寺号を持っている。往生院は、聖光上人が48日の別時念仏を行い、この間『末代念仏授手印』を撰述したことで有名である。『末代念仏授手印』とは、高祖・善導大師の教学を背景として、法然上人から相伝した教え(念仏往生の正義)を明記し、自ら手印を押したもので、以後浄土宗五重の中心として相伝の奥義とされてゆく。

 「阿弥陀寺」も「往生院」もH28熊本地震で大きな被害を受けた。早期の復旧が祈念される。

(阿弥陀寺にある無縁供養塔の沿革碑) -阿弥陀寺は、大寶三年(七百三年)行基菩薩の開基になるもので、その後鎌倉時代に浄土宗鎮西派の蓮阿上人が肥後へ入国したときに再興した。万日山頂から白川岸(下川原公園)を経て慶長年間の慶誉上人のときに現在地に移転した。その間「東」「西」「紺屋」の三阿弥陀寺町を町名に残している。  昭和二十八年の熊本市全域に及ぶ大水害の被害にあい、白川からの流水のため墓碑の一部が倒壊し埋没した。さらに、近年は数ある大水で墓碑が破壊される状況となった。このため工事に従事し、埋没した墓碑を掘り起こし、佛の供養のためここに無縁供養塔を建立した-

(阿蘇大宮司惟光の墓:阿弥陀寺内) -文禄の役のとき、肥前名古屋城(現佐賀県鎮西町)で朝鮮出兵の指揮をとっていた豊臣秀吉は、阿蘇大宮司家が謀反を企てたという讒言を信じ、阿蘇家の幼主惟光に責任をとらせ花岡山で自刃させました。惟光は無実の罪をきせられ、年僅かに十二才にしてこの世を去り、この地に葬られました-

(往生院)

(往生院も熊本地震で大きな被害を受けた)

(古往生院跡:熊本市中央区鍛冶屋町公園内) -「児童公園設立碑文 野田秋水」本園古往生院は加藤清正公が建立し、400年の歴史を有し既に廃寺となって居たが、大東亜戦後著しく荒廃した為、町より発議し、市議会の協賛を得て町市経費を分擔し、5ヶ年の歳月を経て墓地住宅を整理終了昭和32年3月都市公園第1号として発足したもので、今後庶民に愛用され発展することを願うものである。今般恵比須神社鎮座50周年に当り町市協力のもと本聖地全般を改修し、公園並に聖地建設に努力した町役員の氏名を刻し以て記念とする。-

(今回の舞台)

(2016年12月11日)

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