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球磨川を治める(加藤清正公の川づくり④)

★加藤清正公が手掛けた八字形の石堰「遙拝堰」と直下流の「萩原堤」は、城下町・港町「八代」を洪水から守る文字通りの生命線であった。

 球磨川流域は台風や梅雨前線による大雨が降りやすい南九州の多雨地域に位置しており、さらに流域は約8割が森林で急峻な山々に囲まれている。したがって、大雨が降ると球磨川は一挙に「暴れ川」となり、流域は古来より繰り返し洪水被害に見舞われてきた。

 球磨川流域の地形は、下流域の「河口部」「平野部」、中流域の「山間狭窄部」、上流域の「盆地部」「源流部(山地部)」に大別される。  上流域の人吉・球磨盆地は、周囲を急峻な山々に囲まれ、多くの急流支川が流入していることから、山地部に降った雨がすり鉢状の盆地に集まりやすい地形となっている。さらに、人吉市街地の直上流で球磨川とほぼ同規模の川辺川が合流することも相まって、人吉球磨盆地の最下流部に位置する人吉市、球磨村では洪水が発生しやすい。  中流域は約43kmに及ぶ山間狭窄部となっており、洪水時に水位が上昇しやすく、川沿いに散在する集落が洪水被害を受けやすい。また、川沿いにJR肥薩線・国道219号・県道が併走していることから、県道等の浸水により孤立する地区がある。  下流域は扇状地であり、拡散型の氾濫域を形成している。このため、一旦氾濫すれば、八代市街地を含む広い範囲に浸水被害が及ぶ。また、干拓で広がった八代平野は、ゼロメートル地帯で、高潮被害を受けやすい。

 『肥後の風土誌』によれば、869年(貞観11年)にはすでに、球磨川で大洪水が発生したとの記録が残されている。この他、記録に残っているだけでも球磨川は過去400年の間に100 回以上も沿川に被害を与えている。  近年(ここ半世紀)においても、昭和40 年(1965 年)7 月洪水、昭和46年(1971年)8月洪水、昭和47 年(1972 年)7月洪水、昭和57年(1982年)7月23~25日洪水、平成7 年(1995 年)7月洪水、平成16 年(2004年)8月洪水、平成17年(2005年)9月洪水など、洪水による被害は跡を絶たない。

 球磨川の治水の歴史は古く、人吉に相良氏が入った頃の1200年代に、新たに開いた土地や領主の城館を洪水から防御するために、堤防や護岸、水制などを施工した記録がある。  中流域の山間狭窄部から下流域の扇状地(八代平野につながる)に流れ出る箇所には、中世「杭瀬」と呼ばれる施設があり、球磨川の水を灌漑用水として取り入れるため、川中に杭を打ちこんで水流を堰き止めていた。  この杭瀬を、八字形の石堰「遙拝堰」に改造したのが加藤清正公であった(と伝えられている)。遙拝堰は、川底に積み上げられた大量の割石や自然石が、両岸から急流を二つに割って八の字形に延び、左右の長さは約200間(約400m)に及んだ。八の字形にして中央部分を20間ほど開けたのは、船や筏などの水運を考慮してのこと。八の字堰は床止機能を有し、洪水流を川の中心部に集め、流れの勢いを押さえた。  堰の両側には頑丈な井樋を二重に設け、取水した灌漑用水は宮地側の太田井手、高田側の奈良木井手を通じて周辺の田畑を潤すことになったわけだが、清正公はさらにこれを利用して干拓地の造成にも取り組んだ。長堤(沖塘)が築かれ、新たに開けたのが千丁町の「新牟田」である。  現在、遙拝堰は昭和43年の改修によってコンクリート堰に生まれ変わったが、その役割は変わることなく、八代平野の穀倉地帯を潤している。  なお、この石堰を「遙拝堰」と呼ぶのは、近くの遥拝宮(現在は豊葦原神社と呼ばれる)に因んでのことである。『八代郡誌』には、「征西将軍懐良親王、高田御所御在館の時、常に当社より吉野の行在所を遥拝せられ、社殿の修復を営み、随従の諸士に命じて石段四八段を献納せしめ給う。故を以って遥拝宮と称す」とある。

 遥拝堰から河口までの下流8kmには塘や堤が連続して築かれた。八代を洪水から守る文字通りの生命線である「萩原堤」、「はぜ塘」、「前川堤」である。また、石刎(河川の川岸から川の中央へ向かって造られた石造りの突起物。流れの速い地点に作ることで水の勢いを和らげると同時に、護岸の役割も果たしている)も配置された。これらは八代城築城と並行して、清正公が城代加藤正方に命じて築かせたと伝えられる。  八代の生命線ともなる塘や堤の中でも、萩原堤は特に堅固に築かれた。それはこの地点が、南から北に流れてきた球磨川が急に東西に涜れを変える曲折点に位置し、水勢が強いからである。現在の萩原堤は戦後改修されたものだが、その原型は当時と変わらない。

 球磨川下流域の土木治水史について↓(8~15ページ) http://www.qsr.mlit.go.jp/yatusiro/site_files/file/river/utsukushi/kankyodesign/02_shiryo1.pdf

(加藤清正公ゆかりの「遙拝堰」)

(「遙拝堰」から下流を臨む)

(八代の街を洪水から防御する「萩原堤」)

(用水の守護と五穀豊穣の神「豊葦原神社(遙拝宮)」) http://www8.plala.or.jp/youhai/yuisho.htm

(遙拝宮の由緒版)

(今回の舞台)

(2016年11月13日)

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