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港湾都市「高瀬」と鎮守・繁根木八幡宮の秋季大祭(港湾都市の発達②)

★鎮守・繁根木八幡宮とともに発展してきた港湾都市「高瀬」。中世~近世にかけて、肥後を牽引してきた交通インフラの記憶が「高瀬船着場跡」に遺る。  今年も10月28日・29日の両日、玉名市の「繁根木八幡宮」で秋季大祭が催行され、節頭区(世話役)の若者らが五穀豊穣に感謝して威勢よい節と踊りの「節頭歌」を奉納した。狩衣に烏帽子姿の節頭稚児を乗せた3頭の飾り馬が、勢いよく参道を駆け上る姿は可愛らしくも勇壮であった。 玉名市繁根木に鎮座する繁根木八幡宮は、応和元年(961年)、大野別府(荘)の地頭紀(大野)隆村が、荘園の本家である石清水八幡宮の分霊を勧請して大野荘250町歩(250ha)の総鎮守とした、と伝えられる。御祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の三神。  中世、繁根木八幡宮は、大野氏の後ろ盾として玉名地方に進出し、高瀬を拠点に海外貿易にも乗り出した菊池氏に保護されてきたが、戦国期に大友氏・竜造寺氏・島津氏の玉名侵入により菊池氏が没落すると同社も衰退。  近世、肥後国の初代藩主となった加藤清正公は、この地が軍事的要塞であるとして、外郭を堅個固な石垣で囲み、その中に社殿を造営した。その後、細川氏歴代も同社を篤く崇敬した。

一方、菊池川と繁根木川に挟まれた三角州に位置する「高瀬(地区)」は、中世、菊池川の水運の利によって国際貿易港として栄え、江戸時代以降は肥後米最大の輸出港として繁栄した。史跡「高瀬船着場」には、米蔵から船着き場へ米俵を運んだ「俵ころがし」と呼ばれる石畳みの坂が残されている。 高瀬船着場跡については、玉名市のホームページに詳しい説明があるので、ここではそれ(該当部分)を引用しておく。  「高瀬船着場跡周辺は、中世には高瀬津と呼ばれており、伊倉の丹倍津とともに有明海沿岸の河港として唐船も出入りしていました。海外渡航や、貿易などで早くから重視され、南北朝時代にはすでに港としての体裁が整っていました。その後室町時代倭冦の頃には、本格的な港として成長をとげました。

 『事蹟通考編年考微巻六』の中に「正平23年(1368年)戊申2月、僧絶海寓肥後国高瀬津按二高瀬津ハ玉名郡高瀬河口ヲ云昔ハ高瀬津及伊倉丹倍津ニ唐船モ来着ス 高瀬伊倉一続 濱ニテ相隔コト半里ハカリナリ・・・」「高瀬ハ異邦ノ書ニモ載セリ 図書編ニ日、薩摩之北爲肥後云々 其奥爲開懐世利 爲達加什云々 往昔此地唐船入湊入唐航海輻セシト云ウ。」と高瀬に関する記事が掲載され、中世以降肥後北部の対外的に重要な港として栄えていました。

 加藤清正の入国後、この地にあった寺院「永徳寺」を移転させ、その跡地に菊池川流域の米の集積地として米蔵を設置し、米蔵に隣接した船着場を整備したと伝わります。加藤氏の改易後、船着場は細川氏が受け継ぎ、堤防下の川岸に堅固な石畳と石垣を築き、間を切って米蔵へ通ずる石段(通称:揚場 あげば)と、米蔵より川へ通ずる石敷の坂道(通称:俵ころがし)と川へ突出する石畳を設けました。上流の菊池、山鹿方面と玉名の一部から平田舟によって運ばれた米俵は、上手の船着場より石段(揚場)を使って御蔵へ運び込まれ、御蔵で検査が終わった蔵出し俵は、石敷の坂(俵ころがし)を使って、再び平田舟に積み込まれました。河口にある晒船着場で中型船(上荷船)に載せ替えられ、さらに有明海沖に停泊中の大型船へと積み込まれ、大坂堂島の蔵屋敷へ納められました。

 堤防を水流から守る石垣、水流を弱める設備である「ワク」2基、御蔵に米俵を運び入れる石段(揚場)1基、御蔵から運び出した米俵を舟へ移し替える石畳のスロープ(俵ころがし)2基が現存します。安政2年(1855年)作成の「菊池川全図」にも現在と同様の設備が描かれています。


 熊本藩高瀬米蔵跡(玉名市)


菊池川と繁根木川に挟まれた三角州に位置する高瀬(地区)は、中世には繁根木側右岸の繁根木(地区)とともに大野別府(荘)に属しており、繁根木八幡宮は高瀬津(港)の鎮守であった。  近世以降、肥後国藩主・加藤清正公と細川氏歴代の篤い庇護を受け、高瀬と繁根木は一体の港湾都市として発展した。菊池川の豊かな流れと恵みとともに。

(繁根木八幡宮・秋季大祭2016)

(繁根木八幡宮:二層造りの楼門)

(節頭踊り)

(勢いよく参道を駆け上る飾り馬)

(高瀬船着場跡・説明板)

(高瀬船着場跡)

(俵ころがし跡)

(今回の舞台)

(2016年10月29日)

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