加藤清正が築城した難攻不落の「熊本城」、巨大地震からの復旧が待ち望まれる。
★西郷隆盛に「わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」と言わしめた熊本城も、M7の巨大地震には・・・。「せいしょこ(清正公)さん」の治世を、これから振り返っていく。
熊本地震(本震)の発生から今日でちょうど半年。熊本地震に伴う震度1以上の揺れは、この半年間で4,000回を超える。犠牲者は直接死50人、震災関連死55人、負傷者は2,450人。多数の家屋倒壊や土砂災害、電気・ガス・水道等のライフラインへの被害のほか、空港・道路・鉄道等の交通インフラにも甚大な被害が生じ、県民生活や中小企業、農林漁業や観光業等の経済活動にも大きな支障が生じた。熊本県を代表する文化財「熊本城」や「阿蘇神社」も壊滅的な被害を受け、修復には多額の費用と長い時間が必要となっている。 KKTくまもと県民テレビは、発災後しばらくの間、ホームページ上に「熊本城と加藤清正」というページを作って、熊本城の歴史・沿革をわかり易く説明するとともに、熊本城に関連する熊本地震からの復旧・復興の取り組みを継続的に紹介していた。
「熊本のシンボル、熊本城は、加藤清正(1562~1611)が熊本市中心部の茶臼山丘陵に、1601(慶長6年)から1607年(慶長12年)にかけて築いた城です。力強く優美な外観、壮大な石垣など見所が多く、姫路城(兵庫県)、松本城(長野県)とともに、日本三大名城のひとつとされています。(中略) 熊本城には、築城の名手だった清正の知恵があちこちに生かされています。石垣には上に行くほど反り返る「武者返し」と呼ばれる構造が採用されています。籠城戦に備えて「食べられる城」にするため、城内の建物の土壁にはかんぴょうを塗りこめ、畳の床には食用になる里芋の茎を用いたといわれます。また、城内には井戸が120カ所もあったといいます。(中略) 熊本城を築いた加藤清正は、戦に強く、築城が得意な大名でした。幼いころから豊臣秀吉に仕えて数々の武功を立て、1588年(天正16年)に27歳で肥後北半国の領主となりました。治山治水、新田開発などに力を入れて領民に慕われ、今でも熊本では善政の事跡は「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」とされています。(中略) 清正の死後から間もなく加藤家は改易され、熊本城は細川氏の居城となります。その後、熊本城が明治維新まで実際に戦火にあうことはありませんでした。本格的な戦火が交えられたのは、築城から270年が経過した1877年(明治10年)の西南戦争。西郷隆盛率いる薩摩軍が政府軍の拠点となった熊本城を攻めましたが、薩摩軍は城を落とすことができませんでした。西郷は西南戦争に敗れて自決する際「わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」という言葉を残したといいます。しかし、この攻防戦の最中に原因不明の火災が発生し、天守を含む本丸御殿や櫓などは焼失してしまいました。(中略) 城域は1945年(昭和20年)7月の熊本大空襲では罹災を免れ、1960年(昭和35年)には現在の天守閣が復元されました。内部は熊本博物館分館、最上階は展望所となっています。1998年度(平成10年度)からは城郭全体の復元整備計画が始まり、南大手門や戌亥櫓、飯田丸五階櫓などが復元されました。(中略) 熊本城を訪れる人は年間約170万人にのぼり、最近は外国人も増えています。城郭内の加藤神社には多くの初詣客が訪れるほか、加藤家の菩提寺・本妙寺では、清正の命日の7月23日~24日)に頓写会(とんしゃえ)と呼ばれる法要が行われ、多くの参拝客でにぎわいます。毎年2月の熊本城マラソンには多くの市民ランナーが参加します。熊本城は熊本の観光の目玉となっている熊本城は、熊本市民の暮らしにも深くとけ込んでいます。 熊本城は2016年4月の熊本地震で大きな被害を受け、現在は城の中はもちろん、公園となっている城域内にも立ち入りができない状態となっています。4月14日の「前震」でも天守閣の瓦が落ちるなどの被害を受けましたが、16日の「本震」では瓦としゃちほこがほとんど崩落しました。城域内の櫓も壊れ、平成になってから復元された飯田丸は下部の石垣がえぐれるように崩落し、1列の石垣だけでかろうじて立っている状況です。石垣の崩落は50か所、全体の約3割に達し、修復には350億円もの費用が必要といわれています。」
勇猛な戦国武将として名を馳せている加藤清正は、ここ熊本に於ては、日本三名城・日本三堅城の一つである熊本城の築城、全県下に亘る治水工事、干拓・開墾、街道づくり、産業の奨励保護、学問の奨励・文化の開拓等の偉業をなした大恩人として称えられており、熊本城内に鎮座する加藤神社をはじめ、県内には加藤清正を祭る神社が沢山ある。
中学校の歴史教科書では、武田信玄によって築かれた霞堤「信玄堤」ばかりが取り上げられているが、この時代、全国の戦国大名が治水・灌漑・交通路整備に力を注いだ。肥後国を治めた加藤清正もその一人で、清正は、暴れ川と言われ何度も熊本城下を襲っていた白川や緑川に堰を築き、井手(いで)を掘るなどして広大な穀倉地帯をつくった。また、大津街道など道づくりにも力を注ぎ、今日の熊本のいしずえをつくった功績から、ここ熊本では「せいしょこ(清正公)さん」という愛称で呼ばれてる。 熊本城公式ホームページ:https://castle.kumamoto-guide.jp/ 加藤神社公式ホームページ:http://www.kato-jinja.or.jp/ 本妙寺公式ホームページ:http://www.honmyouji.jp/
(被災後6か月の熊本城天守閣:2016年10月9日)
(熊本地震による被害:2016年10月9日)
(応急復旧工事で補強された飯田丸五階櫓:2016年10月9日)
(新春を迎えた加藤神社と熊本城:2016年元旦)
(迎春準備を整えた熊本城:2015年12月末)
(加藤清正公を祀る本妙寺浄池廟の中門)
(本妙寺公園の加藤清正公像:浄池廟の裏手から300段の石段を登る)
(本妙寺公園から熊本城・熊本市街を見渡す)
(今回の舞台)
(2016年10月16日)