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肥後国の律令時代、産業を奨励して地域を豊かにした肥後守・道公首名(みちのきみおびとな)の徳

★坪井川と井芹川の合流部・天社宮(高橋東神社)の境内にある樹齢1000年といわれるクスノキ。奈良時代に産業を奨励して地域を豊かにし、その徳を称えられた道君首名が祀られている。

 律令時代の肥後国の国府は、現在の熊本市域にあって、益城郡(熊本市南区城南町)、託麻郡(熊本市中央区国府)、飽田郡(熊本市西区二本木)と、何度か場所を移動したと考えられている。  この時代、肥後の国土に大きな功績を遺した国司がいた。奈良時代の肥後守・道公首名(みちのきみおびとな)その人である。道公首名は北陸加賀の道君一族に生まれ、新羅大使や筑後守を経て、和銅6年(713年)兼任肥後守に就任。肥後守になった道君首名は産業の振興に努め、農民に対して農耕や果樹・野菜の栽培、豚や鳥の飼育などの技術を基礎から厳しく教えた。 郷土史家の鈴木喬氏は、「首名は着任すると農民に産業を奨励し、農耕や果樹・野菜・家畜を勧めるために、詳しい規則を定め教えます。そのひとつに「畦畝(けいほ)に果菜を植えさせる」とあります。つまり、田んぼの畦(あぜ)を活用し果樹(桃・みかん)や野菜(春の七草のたぐい)を植えさせたということです。果菜は栄養のバランスを保つ上に是非必要なものです。また「鶏(けい)ろくを処置させる」とあります。鶏や豚の肉を干し肉にし保存することや、骨を釣り針などに加工して利用する方法を教えたのです。  首名は農民に対し、自分の教えを強制してでも実行させようとします。農民にとって農業のやり方を変えるということは命に関わる問題でした。天候が不順でない限り、前の年にやったことをそのままやっていけば、それだけの量は取れるわけで今までのやり方を変えたくないという思いがありました。  首名は規則に従わない者は処罰しました。初め農民達は恨んだり悪口を言ったりしました。ところが実際の収穫の時期になってみると、首名の指導に従った人達の収穫量は従わなかった人よりはるかにたくさんありました。首名の指導に従えば生産がふえくらしが豊かになると知ると、農民達は喜んで彼に従うようになります。」と語る。  また、道君首名は、各地に溜池を築いて灌漑を広め、安定した水稲耕作を可能にした。中でも、熊本市の万日山と独鈷山の北側(池上町・新村・谷尾崎町の間)の低湿地帯にあったと推定される「味生池(あじうのいけ)」は有名で、肥後国はその後、延歴14年(795年)には「上国」から九州唯一の「大国」となり、大和政権下で重要な位置を占めるようになる。

現在、熊本市の中心部を通って西に流れる坪井川と井芹川の合流部・天社宮(高橋東神社)の境内に、樹齢1000年といわれるクスノキが立っている。クスノキの横にはお堂があるが、それは拝殿で、このクスノキが御神木。奈良時代に産業を奨励して地域を豊かにし、その徳を称えられた道君首名が祀られている。今も周辺はきれいに掃き清められていて、住民から慕われていることがよくわかる。味生池(推定地)は、この御神木から目と鼻の先の距離にある。

(道公首名を祀る高橋東神社)

(高橋東神社・由緒板)

(御神木・天社さんの楠)

(味生池推定地)

(味生池推定地の現在の眺め)

(今回の舞台)

(2016年10月1日)

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