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西三河を育んできた矢作川の流れ<三河国土学①>

★『徳川家康』『世界のトヨタ』『日本のデンマーク』など、矢作川の流れは西三河地域を歴史的に形作り、わが国発展の礎となる人や産業を育んできました。


尾張・西三河・東三河

 以前のブログ(三河国一宮「砥鹿神社」に詣でる<穂の国「東三河」①>)で、愛知県は「尾張」地方と「三河」地方に大別され、さらに三河地方は、西三河(岡崎市や豊田市など)と東三河(豊橋市や渥美半島地域など)に区分される、県民性が異なると書きました。

 尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに)は、いずれも、かつて日本の地方行政区分だった令制国で、三河国は「参河国」や「三川国」と表記されることもあったようです。また、律令国家が完成される以前、豊川流域一帯、豊橋市を含む東三河地域は「穂国(ほのくに)」と呼ばれ、西三河地域と区分されており、古くは、「三河」といえば西三河を指していたようです。


西三河地域を育んできた「矢作川の流れ」

 今回からは、シリーズ<三河国土学>をスタートさせますが、ここでは主として西三河地域の国土学的主題を取り上げていこうと思います。そして、この西三河地域を歴史的に形作り、育んできたのが「矢作川の流れ」です。

 矢作川は、その源を中央アルプス南端の長野県下伊那郡大川入山(標高1,908m)に発し、愛知・岐阜県境の山間部を流れて、平野部で支川の巴川、乙川を合流し、その後、矢作古川を分派して三河湾に注ぐ愛知県を代表する一級河川です。西三河地域は、この矢作川が中央を流れ、北東部には山間地域、南西部には洪積台地と沖積平野が広がっています。

 西三河地域と言えば、まずは、270年近く続く「パックス・トクガワーナ(徳川の平和)」とも呼ばれる泰平の世を築き上げた歴史的偉人・徳川家康を輩出した土地であることを挙げることができます。今年は、NHK大河ドラマ『どうする家康』が放送中であるため、岡崎市を始めこの地を多くの観光客が訪れています。

 また、この地(豊田市)には『世界のトヨタ(トヨタ自動車本社)』があり、これを支える数多くの中小企業とともに世界に冠たる業績を誇っている自動車関連産業は、戦後一貫して、わが国の経済を牽引してきました。名古屋港(国際拠点港湾)、中部国際空港(セントレア)、東名高速道路、新東名高速道路(伊勢湾岸自動車道を含む)、東海環状自動車道などの交通インフラが、これを下支えしていることは言うまでもありません。

 さらに、近代以降に整備された「明治用水」を始めとする農業インフラ(大規模な用水施設)によって、西三河地域は一大農業地帯として生まれ変わり、『日本のデンマーク』と言われた安城市を中心とした稲作農業を始めとして、園芸、畜産などの大規模経営が広範囲で行われています。

 そして、これら西三河地域の産業(工業用水、農業用水など)や都市の生活(上水道水)を支えているのが「矢作川の流れ」なのです。


徳川家康ゆかりの地(岡崎市)


蓮の花咲く伊賀八幡宮(岡崎市)


岡崎城天守閣からの眺め、右奥は乙川(岡崎市)


野見山展望台から豊田市街地を望む、左手は矢作川(豊田市)


トヨタ自動車(豊田市)


明治用水頭首工と矢作川(豊田市)


矢作川治水の歴史

 矢作川は、15世紀中頃までは、自然の流れのままに幾筋もの流れがあり、中下流でたびたび氾濫し、流れを変えていました。矢作川の治水事業の始まりは、14世紀に「六名堤(むつなつつみ)」の築造と乙川の矢作川合流化(乙川の開削)が行われたことで、これにより、当時の岡崎城への舟運を利用した物資運搬の利便性が向上し、六名堤により乙川旧水路を締め切ることで、六ツ美地域の発展にも寄与したとあります。また、1452 年~1455年の間に、西郷弾正左衛門が岡崎城の築城にあわせ堤防を築き、矢作川の流れを固定させたとの記録もあります。

 矢作川(本川)の大規模治水事業の始まりは、文禄3年(1594)豊臣秀吉の命令で岡崎城主田中吉政が行った、中流域西部・南部の河道一本化工事であったようですが、この当時、矢作川の下流部は今の矢作古川を流路としており、川幅が狭かった(河川断面が小さかった)ことから、吉政による中流域の河川改修(築堤)の効果は現れず、むしろ逆に遊水地などが消失したことで下流域の水害を激増させてしまいました。【→次回のブログで紹介します】

 江戸時代に入って、1605年(慶長10年)徳川家康が米津清右衛門に命じて、下流の台地(現西尾市矢作古川の分流点より米津町油ヶ渕流入地までの台地)を開削して、今の矢作古川から川を付け替え、現在の矢作川(本川)の川筋を概成させたことで、吉政が先行して実施した矢作川改修(築堤)の効果(治水効果)が顕れることとなり、本格的な矢作川の舟運も可能となりました。

 ただ、これによって矢作川の水害がなくなったわけではなく、江戸時代以降も矢作川は幾度となく氾濫し、岡崎市を始めとする流域に大きな被害を与えてきました。

近代以降、矢作川の本格的な治水は、昭和8年(1933年)からの国による直轄工事により始まり、在来堤の拡幅、引堤、掘削等が施工されてきました。さらに、農業用水、工業用水、水道用水の需要の増加や、伊勢湾台風等の大規模災害による被害を踏まえ、洪水調節と利水を目的とした矢作ダムが昭和46年(1971年)に完成したことで、西三河地域の安全と繁栄に大いに貢献してきました。


 矢作川の歴史|国土交通省


 矢作川のページ|中部地方整備局豊橋河川事務所


 歴史災害探索 まちあるきガイドその3(東岡崎~岡崎市役所~矢作橋編)|岡崎市



矢作川支川・乙川「六名堤」(岡崎市)


矢作川(徳川家康の命で開削された区間:志貴野橋から上流を望む)


矢作神社(岡崎市)

※由緒:地元民から賊の退治を依頼された日本武尊は矢作部(やはぎべ)達に矢を作るよう命じましたが、竹は流れが速い川の中州にあり、矢作部達は到底竹の生えている中州まで行けませんでした。そこへ一匹の蝶が現れ人の姿となり竹を切り取ってきてくれたので、矢作部たちはこの竹を用いて一夜で一万本の矢を作り、日本武尊は素戔嗚尊を祀り、賊を討ち果たしたと伝えられています。この故事によりこの神社は矢作神社と呼ばれることになったと伝えられています。


【参考】徳川家康公と治水事業/利根川の東遷

 徳川家康公による本格的な治水事業は、矢作川に限ったわけではありません。その代表格として「利根川の東遷」を挙げることができます。

 現在の利根川は、関東平野をほぼ西から東に向かって貫流し太平洋に注いでいますが、近世以前においては、利根川、渡良瀬川、鬼怒川(毛野川)は各々別の河川として存在し、利根川は関東平野の中央部を南流し荒川を合わせて現在の隅田川筋から東京湾に注いでいました。天正18年(1590年)に徳川家康の江戸入府を契機に付替え工事がスタートし、分水嶺であった台地を削って新川通や赤堀川を整備した結果、利根川は太平洋に注ぐようになりました。この一連の工事は「利根川の東遷」と言われ、これにより現在の利根川の骨格が形成されました。

 東遷により利根川水系は関東平野に巨大な水路網を形成し、関東地方だけでなく、外海ルートと結ばれた津軽や仙台など陸奥方面からも物資が盛んに行き交うようになりました。このため利根川は、日本きっての内陸水路として栄えました。

 また、利根川の東遷には、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進することや、東北の雄・伊達政宗に対する防備の意味もあったといわれています。



 シリーズ「国土教育」:県境変更と首都東京発展の礎となった利根川の東遷|道21世紀新聞 Route Press 21



(今回の舞台)


(2023年08月13日)



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