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現地で学ぶ宝暦治水<尾張国土学⑪>

★本格的治水事業の先駆けともいえる宝暦治水と薩摩藩士の物語は、千本松原、宝暦治水碑、治水神社などの史跡とともに、現在でも多くの人々に讃えられています。

 

河川学習の学校「国営木曽三川公園」

  木曽三川公園は、愛知、岐阜、三重の3県にまたがる河川空間(木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川が有する広大なオープンスペースと豊かな自然環境)を活用した日本一広い国営公園で、三派川地区・中央水郷地区・河口地区の3地区に分散して全13拠点が開園しています。

 

 国営木曽三川公園ホームページ



 少し前のブログにも書きましたが、木曽三川は、古くは1本の河川の様相となって伊勢湾に注いでいたため、洪水のたびに影響し合い水害が頻発する原因となっていました。また、流路を変えることもたびたび有り、河口部では住民の水害に対する自衛手段として輪中堤や水屋(“水”害時に避難する“小屋”)等がつくられてきました。

 江戸時代以降は、徳川家康の命による「御囲堤」の整備や、幕府の命よって薩摩藩が行った「宝暦治水」工事、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケが指揮した本格的な三川分流工事「明治改修」等、さまざまな治水工事が行われてきました。

 国営木曽三川公園及びその周辺地域では、こうした木曽三川の地理的特色や先人達による歴史的な取り組みを、「現地で」「より深く」学ぶことが出来ます。

 三派川地区にある「138タワーパーク」内の展望タワー「ツインアーチ138」からは、御囲堤によって400年以上にわたり水害から守られてきた濃尾平野を一望することができます。

 中央水郷地区にある「木曽三川公園センター」内の展望タワーからは、眼下に広がる雄大な木曽三川の流れと輪中地帯独特の水郷景観が一望できるとともに、明治改修によって分流された木曽川と長良川の背割堤や、宝暦治水工事の完成直後に薩摩藩士が植えたと伝えられている千本松原(長良川と揖斐川の背割堤の最上流端)を確認することができます。また、同センター内には、木曽三川の自然環境や治水事業の歴史などを総合的に学ぶことのできるミュージアム「水と緑の館」や、輪中の農家(水郷地域の伝統的なつくりをした家屋。上げ舟、上げ仏壇、水屋といった工夫が見て取れる)も整備されています。

 さらに、中央水郷地区周辺には、宝暦治水や明治改修ゆかりの施設や記念碑も数多く、河川に関する学習の場として開設されている「木曽川文庫」(木曽川下流河川事務所)では、木曽三川に関する各分野の図書、研究論文等の収集・保存が図られていて、一般の方々や研究者に利用されています。

 

 木曽川・長良川・揖斐川|国土交通省

 

 水屋(輪中の農家)/木曽三川公園センター|国営木曽三川公園

 

 木曽川文庫の概要|国土交通省木曽川下流河川事務所


御囲堤と濃尾平野(ツインアーチ138展望台からの眺め)


高須輪中と水郷景観(木曽三川公園センター展望台からの眺め)


木曽川と長良川の背割堤(木曽三川公園センター展望台からの眺め)


千本松原(木曽三川公園センター展望台からの眺め)


水屋のある輪中の農家(木曽三川公園センター内)

 

宝暦治水の史跡を巡る

 木曽三川下流域は古くから水害常襲地帯で、民による自衛手段としての輪中堤は発達していましたが、この地域の洪水被害が減ることはありませんでした。

 1753年(宝暦3年)の大洪水の後、水害に苦しむ人々の申し出を受け、徳川幕府は木曽三川の治水工事を薩摩藩に御手伝普請として命じました。この時、幕府は大規模治水事業を命じ、莫大な財政負担を強いることで、外様大名・薩摩藩の勢力の弱体化を図ろうとしたのでした。

 宝暦治水を命じられた薩摩藩では、この工事を引き受けるか否かで紛糾。幕府との開戦論議さえ起こりましたが、家老の平田靱負は「幕府と戦えば、薩摩は戦場となり、罪もない子どもや百姓までもが命を落とす。ならばこの治水事業を引き受け、異国といえど美濃の民百姓を救うことこそ、薩摩隼人の誉れを後世に知らしめ、御家安泰の基となろう」と、いきりたつ家臣を説得。幕命を受けることになりました。

 1754年(宝暦4年)、総奉行・平田靱負は947名の藩士を率いて故国を出立。途中大阪に立ち寄り工事費数万両を調達した後、美濃に到着し、同年2月より工事は始まりました。

 治水工事は木曽三川下流域の広範囲に及び、なかでも油島締切り工事、大榑川洗堰工事、逆川洗堰締切り工事は極めて困難な工事で、途中、工事計画の変更や大雨により工事をやり直すことも度々で多額な費用を費やすことになりました。しかも、薩摩藩士を待ち受けていたのは幕府による冷遇。「食事は一汁一菜、酒や魚は一切禁止」という日常的なことから、町方請負禁止などの工事上の難題にいたるまで、さまざまな悪条件を突きつけられた中での工事を強いられたのでした。

 が、ついに1755年(宝暦5年)5月に工事は完成。その成果は、幕臣からも賞賛を受けるほど、見事な出来栄えでした。しかし、工事中51人の割腹者と33人の病死者を出したことと、多額の借金を出してしまった責任を負い、総奉行の平田靭負は割腹自殺をとげたといわれています。

 以上、通説に従って宝暦治水の概要を紹介してきました。木曽三川の完全分流による治水安全度の向上は、ヨハネス・デ・レーケ(オランダ人土木技術者)の指導による明治改修を待つことになりますが、本格的治水事業の先駆けともいえる宝暦治水と薩摩藩士の物語は、千本松原、宝暦治水碑、治水神社などの史跡とともに、現在でも多くの人々に讃えられています。

 

 宝暦治水二六〇年記念 特別号|KISSO(国土交通省木曽川下流河川事務所)

 

 平田靱負/木曽三川治水偉人伝|国土交通省木曽川下流河川事務所

 

 千本松原・油島締切堤|国土交通省木曽川下流河川事務所

 

 宝暦治水碑|国土交通省木曽川下流河川事務所

 

 治水神社|国土交通省木曽川下流河川事務所

 

 治水神社ホームページ


千本松原(岐阜県海津市海津町油島)

※治水工事の完成を記念して、薩摩藩士が油島締切提の上に千本の「日向松」の苗を植えたものと伝えられている。


宝暦治水碑(岐阜県海津市海津町油島)

※1900年(明治33年)、近代の木曽三川治水工事の成功式典(三川分流成功式)に併せて、薩摩藩士の慰霊と宝暦治水の偉業を記念する「宝暦治水碑」が千本松原に建立された。


治水神社(岐阜県海津市海津町油島)

※治水の神様・平田靱負正輔大人命を祀る。


宝暦治水工事犠歿者碑(治水神社境内)


薩摩義士之像(治水神社境内)


(今回の舞台)

 

 (2024年05月12日)




 



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