水城跡(私とインフラin福岡⑥)
- moritayasuo
- 5月18日
- 読了時間: 2分
★これまでの回とは違って、今回は福岡にある文化遺産「水城跡」を紹介したいと思います。現代のインフラストラクチャーには、道路・空港・港湾(交通インフラ)、堤防・ダム・砂防施設(防災インフラ)、上下水道・公園・駅前広場(都市インフラ)などがありますが、「その起源は?」というと、大石久和先生が言うところの「都市城壁」に遡ることになります。
西欧にも中国にも、都市城壁によって命を守ってきた歴史があります。この城壁こそがインフラであって、人々の暮らしの安全を担保してきました。しかし、日本人は都市城壁を持ちませんでした。というか、持つ必要がありませんでした。平城京は中国(唐)の都・長安を真似て造ったと言われています(そのことは歴史教科書にも書かれています)が、平城京には長安のような都を囲む城壁はつくられませんでした。外国からの侵略の恐れが少ない島国では、都市城壁という防衛インフラまで模倣する必要がなかったのでしょう。
そして、この経験の違いがインフラの重要性認識に関する彼我の違いにつながっています。日本人には都市城壁で命を守られてきた経験がないため、インフラが社会にとって不可欠な装置だという認識につながらないのです。大石国土学ではこのように学びました。
こうした中、都市城壁を持たなかったわが国における数少ない例外として存在する防衛インフラが、福岡県太宰府市~大野城市に広がる「水城跡」です。水城は663年白村江(はくすきのえ)の戦いの翌年に造られました(白村江とは朝鮮半島の地名です)。中学校の歴史教科書でも学びましたが、白村江の戦いで敗退した後、大和朝廷は朝鮮半島における足がかりを失い、また、唐または新羅が倭に攻めてくるかもしれないという危ない状況に陥りました。そこで、大和朝廷は百済から逃れてきた亡命者の技術をかり、様々な防衛体制を整えることに乗り出します。水城はそのひとつとなります。
水城は、福岡平野の最も狭くなった場所を塞ぐように築造された、全長約1.2km、幅約80m、高さ約10mの人工の盛土による土塁で、博多側には幅60メートルの濠がありました。当時の技術力や組織力を考えた場合、水城の築造(土木工事)は一大国家プロジェクトで、大変な労働力と時間を要したに違いありません。そしてこの水城は、太宰府の全面(大陸・博多湾側)に設けられ、長い期間、城壁としての役割を果たしたのです。
水城跡|大野城市
太宰府史跡紹介|九州歴史資料館
【第7回】中学「歴史」教科書で学ぶ「国土への働きかけ」(2022.12)/教科書で学ぶ「国土とインフラ」2022~23|月刊「建設マネジメント技術」

水城跡