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木曽川の流れと御囲堤<尾張国土学⑧>

★徳川家康の命により木曽川左岸に築造された延長47kmにも及ぶ大堤防「御囲堤」は、近世以降現在に至るまで、尾張地域(濃尾平野)の人命や資産を洪水から守る上で、大きな役割を果たしてきました。

 

木曽三川はわが国を代表する「河川学習」フィールド

 木曽川水系は、木曽川・長良川・揖斐川の3河川(木曽三川)を幹川とし、山地では峡谷をなし、それぞれ濃尾平野を南流し、わが国最大規模の海抜ゼロメートル地帯を貫き、伊勢湾に注ぐ、流域面積9,100km2のわが国でも有数の大河川です。

 木曽三川は、古くは1本の河川の様相となって伊勢湾に注いでいたため、洪水のたびに影響し合い水害が頻発する原因となっていました。また、流路を変えることもたびたび有り、河口部では住民の水害に対する自衛手段として輪中堤や水屋(“水”害時に避難する“小屋”)等がつくられてきました。

 江戸時代以降は、徳川家康の命による「御囲堤」の整備や、幕府の命よって薩摩藩が行った「宝暦治水」工事、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケが指揮した本格的な三川分流工事「明治改修」等、さまざまな治水工事が行われてきました。

 また、木曽川水系の水は、古くから広大な濃尾平野等へのかんがい用水として利用されてきました。現在の濃尾用水(宮田用水及び木津用水)は、「御囲堤」の整備に伴う木曽川左岸(農地)の水不足に対応するため、濃尾平野に用水路を築造したことがその起源で、既に400年の歴史があります。

 

 木曽川・長良川・揖斐川|国土交通省

 

 こうした地理的特色や先人達による歴史的な取り組みを背景として、木曽三川はわが国を代表する「河川学習」フィールドとして、学校教育現場で大きく取り扱われています。

 具体的には、小学5年生の社会科では「自然条件から見て特色ある地域」を学習することになっているのですが、わが国を代表する「低地(河口に近い地域や海沿いの平地)」の事例として取り上げられているのが木曽三川となっているのです。

 東京書籍(令和3年度の全国の出版社別教科書占有率第1位(=約55%))では、木曽三川が合流する低湿地(岐阜県海津市)の「輪中」に住む人々の生活をターゲットにして、河川管理の目的である「治水」、「利水」及び「河川環境」をしっかりと学習する機会が提供されています。また、日本文教出版(同第3位(=約17%))でも、岐阜県海津市の「輪中」に住む人々の生活をターゲットにして、河川の施設や機能(堤防と輪中、治水工事の歴史、土地改良と排水機場による農業構造改善、水防活動、避難訓練、木曽三川公園など)について総合的に学習する機会が提供されています。いずれも、国土・インフラ教育の優れた教材と言えます。

 

 【第3回】小学5年・社会科で学ぶ「河川」と「防災インフラ」/教科書で学ぶ「国土とインフラ」2022~23|月刊「建設マネジメント技術」(2022.8)

 



犬山城天守閣から見下ろした木曽川の流れ(犬山市)


立田大橋から見た木曽川の流れ(愛西市)

 

家康公の命により築造された木曽川左岸堤防「御囲堤」

 中世までの木曽川は、大雨のたびに流れを変える暴れ川であり、尾張平野には、ちょうどまばらになった竹箒(たけぼうき)のように幾筋もの派流が流れていたようです。

 この竹箒の要の位置にあたるのが「尾張国・犬山の地」で、極めて広い上流域(山地部)で集められた大量の流水が、尾張平野の扇状地に位置する犬山の地で一挙に解放される、その南に広がる広大な現在の市街地は、河道さえ定かならぬ自然堤防地、砂州、三角州平野であった・・・、とイメージしていただければ、当時の状況がよくわかると思います。

 そして、通説では戦国時代末期(安土桃山時代)の1585年(天正13年)6月に、それまで現在の境川の場所を流れ、墨俣で長良川と合流していた木曽川は、大洪水を起こして南方(現在の木曽川の位置)へ流路を変えました。これに伴い、豊臣秀吉(文禄の治水)によって尾張・美濃の国境も変更されたと伝えられています。

 こうしたなか、江戸幕府を開いた徳川家康の命により木曽川左岸に築造された大堤防が「御囲堤」で、その延長は愛知県の犬山市から弥富町までの約47kmにも及びました。1608年(慶長13年)に工事着手し、翌年に完成した「御囲堤」は、徳川家尾張藩を木曽川の洪水から守る(治水)だけでなく、大阪城に余勢を保つ豊臣秀頼をはじめ、西軍大名の侵入を防ぐ意図があったといわれています。

 当時、尾張藩は対岸の美濃側に「美濃の堤は尾張の堤より3尺低かるべし」とし、大堤を造らせないようにしました。そうすることで、洪水が起こった場合、堤の低い美濃側へと水がなだれ込み、尾張側は御囲堤により守られたと伝えられています。それに対抗して、右岸の美濃側では自衛手段として輪中を築くようになりました。

 こうして、尾張国内の多くの地域では御囲堤により木曽川の洪水の脅威は大きく減少しましたが、その一方で、木曽川から分流する河川は全て御囲堤により締め切られ、これらの河川を農業用水としていた村々は水不足に悩まされることとなりました。そこで尾張藩は農業用水(般若用水や木津用水など)の建設やため池(入鹿池など)の整備を進めていくこととなりますが、これらは次回以降のブログにて紹介していきたいと思います。

 

 御囲堤・桜堤(伊奈備前守)|国土交通省木曽川下流河川事務所

 


御囲堤①(犬山市)


木曽川扶桑緑地公園にある「御囲堤」説明板(扶桑町)


御囲堤②(木曽川堤桜:一宮市)


御囲堤③(木曽川堤桜:一宮市)


御囲堤と濃尾平野(ツインアーチ138展望台からの眺め)

 

現場指揮者は幕府直轄の土木技術者「伊奈備前守忠次」

 家康公の命を受け、「御囲堤」築造工事の指揮を執ったのは、関東郡代・伊奈備前守忠次(1550年~1610年)。武蔵小室藩初代藩主でもある伊奈忠次は、幕府の政治・経済の基本となる政策を担当し、幕府直轄の土木技術者として、関東平野の治水や新田開発などに携わりました。東京湾へ注ぎ込んでいた利根川を現在の流れへと変えた工事(=利根川東遷)も、伊奈忠次ほか伊奈一族の行った事業の一つです。

  また、全国に残された「備前堀」「備前堤」の名は、彼の治水・灌漑事業における活躍を物語っており、木曽川左岸の御囲堤は「伊奈備前堤」とも称されています。

 

 伊奈備前守忠次/木曽三川治水偉人伝|国土交通省木曽川下流河川事務所

 


伊奈備前守忠次像(茨城県水戸市)


(今回の舞台)

 

 

(2024年04月21日)

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