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明治用水と日本のデンマーク<三河国土学⑧>

★内村鑑三が活躍した時代(晩年)、愛知県碧海郡一帯(安城市周辺)は、明治用水の整備を切っ掛けとして、わが国を代表する先進的農業実践地域「日本デンマーク」と呼ばれていました。


内村鑑三と『後世への最大遺物』

 内村鑑三(1861-1930年)は、札幌農学校(現在の北海道大学)時代、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」で有名なW.S.クラーク博士に感化されてキリスト教信者になり、その後、福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えたキリスト教思想家です。

 明治・大正期のわが国を代表する識者であり、『代表的日本人』の著者としても有名な内村は、国土教育・インフラ教育の教材に相応しい著書を幾つか遺していますが、『後世への最大遺物』と『デンマルク国の話』がその代表作と言えるでしょう。

 『後世への最大遺物』は、明治27年7月に箱根で開催された夏期学校(全国キリスト信徒の修養会)で行われた講演をとりまとめたもので、講演の要旨は概ね次のような内容でした。

 <われわれが五十年の生命を托したこの美しい地球、この美しい国、このわれわれを育ててくれた山や河、われわれはこれに何も遺さずに死んでしまいたくない、何かこの世に記念物を遺して逝きたい、それならばわれわれは何をこの世に遺して逝こうか、金か、事業か、思想か、これいずれも遺すに価値あるものである、しかしこれは何人にも遺すことのできるものではない、またこれは本当の最大の遺物ではない、それならば何人にも遺すことのできる本当の最大遺物は何であるか、それは勇ましい高尚なる生涯である。>

 勇ましい高尚なる生涯、金、思想とあわせ、将来世代に遺すべき価値あるものとして(公共)事業、すなわちインフラ整備をあげていたのです。この時、内村は、価値のある土木事業として、箱根疎水(箱根の山の下に隧道を掘って、芦ノ湖の水を沼津方面に流し、耕地を大きく増やす)と安治川開削(淀川の洪水を防ぐために、大阪の天保山を切り開いて、安治川をつくった)を取り上げていました。


『デンマルク国の話』

 一方、『デンマルク国の話』は、ドイツ、オーストリアとの戦争に敗れてシュレスウィヒとホルスタインの2州を奪われたデンマークの復興を願う工兵士官ダルガスが、外に失った国土を内に求めようとする(荒漠の地ユトランドに植林を行う)苦心を描いたノンフィクションです。

 ダルガスの苦心の結果、ユトランドの荒野には樅の木が繁り、木材が収穫できるようになったばかりか、気候自体が大きく変化して、良き田園となりました。ちなみに、「2023年版世界幸福度報告(World Happiness Report 2023)」によると、デンマークはフィンランド(第1位)に次いで世界で2番目に幸福な国として評価されています。

 この短編(講演録)で内村は、「国の興亡は戦争の勝敗によりません、その民の平素の修養によります。善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けても衰えません」、「富は大陸にもあります、島嶼にもあります。沃野にもあります、沙漠にもあります。善くこれを開発すれば小島も能く大陸に勝さるの産を産するのであります」、「国の実力は軍隊ではありません、軍艦ではありません。はたまた金ではありません、銀ではありません、信仰であります」と三つの教訓を示しています。

 内村の熱い想いを引き継ぎ、現代に生きる私たちの世代も、国土に対して働きかけを続け、将来世代に対して、より良い社会基盤を遺していかなければなりません。

 ちなみに、この物語(伝記)は、「デンマークの柱」というタイトルで、戦後の小学校国語教科書にも採録されていました。


日本デンマークと明治用水

 内村が活躍した時代(晩年の大正時代末期から昭和時代初期にかけて)、わが国に「日本丁抹(デンマーク)」と呼ばれる地域が生まれていました。それは愛知県碧海郡一帯(安城を中心とした地域)を指しており、明治時代に完成した農業用水路「明治用水」によって豊かな水が確保され、農業経営の多角化、教育・指導機関の充実、組合組織の発達などを背景とした先進的な農業が実践されていたことから、農業先進国であったデンマークになぞらえ、この地は「日本デンマーク」と呼ばれていたのです。安城市では現在も、米や麦、大豆をはじめ、施設野菜、露地野菜、果樹、花卉、畜産など多岐にわたる農畜産物が生産されています。

 江戸時代以前、碧海郡一帯(安城を中心とした地域)は、農業用水を溜池に頼るほかない枯れた土地柄でしたが、文化・文政期に碧海郡和泉村(現:安城市和泉町)の豪農であった都築弥厚(1765年-1833年)が発案・測量した用水路計画のもと、その意志を碧海郡石井新田(現:安城市石井町)の岡本兵松(1821年-1903年)や、碧海郡阿弥陀堂村(現:豊田市畝部西町)の伊豫田与八郎(1822年-1895年)が受け継ぎ、さらに多くの人々の協力があって、明治用水は1880(明治13)年にようやく完成しました。実現にあたっては、水害の発生や「入会地」の減少を恐れた地元農民たちの激しい抵抗があり、また巨額の資金確保といった課題を克服しなければなりませんでしたが、民間の着想と資金調達によってこの歴史的大事業(インフラ整備)は成し遂げられたのです。

 現在、矢作川を水源とする明治用水は、明治用水頭首工(1958年竣工)及び本流、西井筋、中井筋、東井筋の幹線(約88km)と支線(342km)で構成され、安城市を中心に、豊田、知立、刈谷、高浜、碧南、西尾、岡崎の西三河地域8市に水(農業用水、工業用水、上水道水)を供給、約7,000haの耕地を潤しています。また、農林水産省の疏水百選や、国際かんがい排水委員会(ICID)の世界かんがい施設遺産にも認定されています。


 日本デンマーク物語|安城市図書情報館


 明治という名の壮挙 疎通千里・利澤萬世命を育む明治用水|水土の礎(農業農村整備情報総合センター)


 明治用水管内水路位置図|水土の礎(農業農村整備情報総合センター)


 水土里ネット明治用水


 明治用水通水140周年記念『明治用水 疏通千里・利澤萬世』|水土里ネット明治用水


 創立70周年冊子『大地を拓いた先人』|明治用水土地改良区


 明治用水(愛知県)/明治期の農林水産業発展の歩み(土地改良)|農林水産省


山崎延吉像と安城農林高校(安城市池浦町)

※山崎延吉(1873年-1954年)は、日本の農政家・教育者。愛知県立農林学校初代校長。安城市一帯が「日本デンマーク」と呼ばれるほどの農業先進地になったのは、農業改善に力を尽くした山崎の力が大きい。


明治用水頭首工と矢作川(豊田市室町)

※令和4年5月、明治用水頭首工において漏水事故が発生。現在は、自然取水により必要取水量の取水が行われながら、これと並行して、頭首工の機能回復に向けた復旧工事が進められている。

 明治用水頭首工の漏水事故について|東海農政局


※農業用水史上初期の横断堰堤で、服部長七考案の人造石による大規模な堰堤の現存する唯一の例と云われている。2022年(令和4年)5月の明治用水頭首工漏水事故によって水位が下がり、明治用水旧頭首工の全貌が突如姿を現した。

 突如姿を現した明治用水旧頭首工(天野武弘)/中部産遺研会報第87号|中部産業遺産研究会


明治用水緑道西井筋線(知立市八橋町)

※現在、明治用水のほとんど(8割以上)がパイプライン化されているため、その流れを見ることはできない。水路用地の上部は、大部分が自転車道・緑道・歩道・通学道路など有効に活用されており、自転車道や緑道には、せせらぎと呼ばれる水辺が設けられている。


明治用水(安城市篠目町)


水の駅21枚田(安城市篠目町)

※水土里ネット明治用水(明治用水土地改良区)では、「水田ビオトープ」とも言える「水の駅 21枚田」を企画運営し、近隣小学校の子どもたちが米作りを体験できる実習ほ場として活用している(年間を通して、手作業による田植え、生き物調査、鎌での稲刈り、米の収穫後には、収穫祭として餅つき大会を実施している)。


ふれあい田んぼアート 安城(安城市和泉町)


都築弥厚像(安城市和泉町・弥厚公園)

※都築は矢作川から灌漑用水路(明治用水)を引くため、農民の抵抗に遭いながらも私財を投じて測量を完了させ、開墾計画をまとめ幕府に提出した。数年後、幕府は都築の計画を許可したが、同年、都築は病没。その後は地元の反対もあり、用水の建設計画は頓挫することとなった。


明治川神社と明治用水記念碑(安城市東栄町/浜屋町)

※明治川神社は、都築弥厚、伊豫田与八郎、岡本兵松ら明治用水建設の功労者を祀った神社で、1880年(明治13年)の創建。神社の北側には、用水成業式(竣工式)に出席した明治政府高官・松方正義内務卿が詠んだ『疏通千里利澤萬世』(水路を通すこと千里、その恩恵は万世におよぶ)という文字が刻まれた明治用水記念碑が建立されている。


(今回の舞台)


(2023年11月19日)




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