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戦災復興と100m道路<尾張国土学⑯>

★名古屋市の久屋大通・若宮大通(100m道路)、名城公園、白川公園、平和公園などの戦災復興によって整備された都市空間は、現在も大都市・名古屋市の骨格を形成するとともに、市民に安らぎと潤いを提供しています。

 

戦災復興の時代

 先の大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)末期の米軍による無差別戦略爆撃の結果、わが国の主要都市のほとんどが戦災を受け、多くの市街地が焼失してしまいました。被災都市の数は215、焼失面積は64,500ha、全国の都市住宅の1/3が焼失するなど甚大な被害となりました。

 愛知県内でも、名古屋市、豊橋市、岡崎市、一宮市、半田市、豊川市などで甚大な被害があり、名古屋市では全市域約16,000haの約24%に当たる約3,850haが焦土化し、都心部の公共建物や交通インフラは壊滅的な打撃を受けました。残念なことに、1612年建造の名古屋城(旧国宝)をはじめ、市内にあった数多くの歴史的建造物などの大半も失われてしまいました。

 

 名古屋市における戦災の状況(愛知県)|総務省

 

 こうした焦土化した都市の戦災復興は、現在に至る都市の構造を決定する事業となりました。ただ、都市の首長や議会の熱意の差が計画の進捗に影響を与えた面もあり、成功の度合いについては差があったようです。

 1945年(昭和20年)11月5日、内務省から独立して省と同格の戦災復興院が設立され、各省庁に分かれていた関連部局をここに全面移管。同年12月30日には、戦災復興計画基本方針が閣議決定され、復興計画区域が定められました。計画の目標として地方の特色をもった都市集落建設を目指し、土地利用や街路・緑地・港湾・運河・鉄道等の整備計画を策定することとなったのです。

 なかでも街路については、50mないし100mの幅員を必要箇所に設け、交通量だけでなく、防災や景観といった都市空間としての機能をもあわせて追求することとしました。

 さらに、罹災地域の全体にわたり、土地整理事業を行うことを重点として、1946年(昭和21年)10月には、全国115都市、65,000haが戦災都市に指定されました。

 しかし、戦後の厳しい経済状況のもと、ドッジラインで有名な緊縮財政のもとでは、当初の計画は貫徹しえませんでした。GHQからは「まるで戦勝国の計画だ」といわれ、復興計画の縮小が求められました。

 それでも、仙台市・名古屋市・神戸市・広島市などでは、市長や関係者の努力により、当初計画に近い形で復興することができました。名古屋市の久屋大通り、広島市の平和大通りといった100m道路や仙台市の青葉通りのケヤキ並木は、この計画の成功事例として今日に生きています。

 

名古屋市の戦災復興事業

 1945年(昭和20年)12月に国が「戦災地復興計画基本方針」を閣議決定した時、名古屋市では既に「大中京再建の構想」を策定していました。名古屋市では、同年9月に市の再建に関する決議を行い、翌10月には市復興調査会を設置して戦災復興の議論をスタートさせていたのです。

 翌1946年(昭和21年)3月の議会では、当時の市長が「名古屋市復興計画の基本」を説明していますが、その内容は、「人口は200万人を想定する。主要幹線道路は幅員50m以上にする。如何なる道路も自動車交通に支障なき幅員とする。高速度鉄道を南北1本、東西1本設置する。国鉄・地方鉄道の乗り入れは総て高架又は地下にする。焼け跡はできるかぎり区画整理を施行する。国民学校(小学校)敷地は、約10,000m2として、道路を隔てて同面積の小公園を配置する。墓地は一定区へ移転整理する。」という壮大なものでした。

 その後、「名古屋市復興計画の基本」に掲げられた復興事業の多くが実現しました。その背景には、①戦前に当時の市域の半分以上で耕地整理や土地区画整理事業が実施されており、市役所に技術・知識の蓄積(経験知)があったこと、②事業の着手・進捗が早く、1949年(昭和24年)に国から事業縮小の指令が出された時には、既に事業の縮小はできない状況にあったこと、③その前提として終戦直後に内務省土木技官の田淵寿郎氏(戦前に内務省名古屋土木出張所長を務め、中国の戦災地復興も手がけていた)を名古屋市技監として招聘していたこと、などがあったと言われています。

 この戦災復興によって、火災の延焼を防ぎ市民の避難場所にもなる広福員道路(「100m道路」と呼ばれる)が「久屋大通」と「若宮大通」に整備されるとともに、幅員50mの主要幹線道路などを格子状に配置した道路網が整備されました。また、碁盤割の地割を活かした商業地区として機能を高め、高度利用が図れるようにするため、地割周囲の道路を広幅員とする区画整理が広範囲に行われました。

 さらに、新たに名城公園、白川公園、久屋大通公園、若宮大通公園等の大規模緑地公園や、1学区1公園を目標とした小学校と隣接する公園が整備されました。また、都心からの墓地移転により墓地と公園が一体となった平和公園も整備されました。

 こららの都市空間は、現在も大都市・名古屋市の骨格を形成するとともに、市民に安らぎと潤いを提供しています。

 

 大都市の復興「名古屋」/協会誌vol.278|(一社)建設コンサルタンツ協会

 

 名古屋の発展の基礎となった戦災復興事業/インフラ整備70年|(一社)建設コンサルタンツ協会

 

 Hisaya-odori Park(久屋大通公園)



久屋大通①(名古屋市中区)


久屋大通②(名古屋市中区)


久屋大通③(名古屋市中区)


イベントによる週末の賑わい(久屋大通公園)

※名古屋市のシンボルロード「100m道路・久屋大通」の中央部にある久屋大通公園は、名古屋を代表する繁華街・栄地区に位置し、年間を通じて様々なイベントが開催されている。


名城公園(名古屋市北区)


白川公園(名古屋市中区)


平和公園(アクアタワーからの眺め:名古屋市千種区)

※戦災復興土地区画整理事業の一環として、市内に点在する279寺の墓地約18ha(189,030基)を東部丘陵地に移転することで整備された。


(今回の舞台)

 

 

(2024年06月16日)


 



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