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徳川家康ゆかりの地・賀茂と霞堤<穂の国「東三河」⑬>

★豊橋市の最北端に位置し、田園が広がる自然豊かな町「賀茂」。家康公ゆかりの賀茂神社や豊川の霞堤が地区の歴史を今に伝えています。


豊橋・賀茂神社に残る徳川家康伝説

 私が住んでいる豊橋市には、NHK大河ドラマで今話題の徳川家康公ゆかりの地が点在しています。

 一つ目は「吉田城址」。家康公は東三河の拠点として吉田城を攻城し、徳川四天王筆頭の酒井忠次を城主としました。吉田城主となった忠次は、在任期間中(1564年から約25年間)に、「武田信玄」対策の重要な拠点である吉田城に新たな堀を築造し、軍事面での機能強化を図るとともに、この地の民政にも大きな足跡を残しています。[⇒詳細は次回のブログにて]

 二つ目は「安久美神戸神明社」。少し前のブログ(鬼祭<『かがやく豊橋』⑧>)で取り上げましたが、赤鬼と天狗のからかいで知られる「豊橋鬼祭」が行われるこの神社には、1554年(天文23年)、家康公が13歳の時に境内にある松の根元に腰掛けて鬼祭を観覧したという伝説が残されています。

 そして三つ目が「賀茂神社」。豊橋市賀茂町字神山に鎮座する賀茂神社は729年(天平元年)創建ともいわれる古刹で、現在も必勝祈願や立身出世にご利益がある神社として広く信仰を集めています。その背景にあるのが家康公の伝説で、①1568年(永禄11年)に家康公が遠州出陣の武運長久を祈願して大旗を奉納した、②1573年(天正元年)に武田信玄が野田城を囲んだ際にこの城の救援に向かった家康公が逆に敗走し、当神社の大楠の空洞に身を寄せて一命をとりとめた、と伝えられています。


「どうする家康」関係|豊橋市


 賀茂神社



賀茂神社(豊橋市賀茂町字神山)


花しょうぶまつり(賀茂しょうぶ園)

※賀茂神社の入口にはしょうぶ園が整備されており、約300種のハナショウブが植えられています。開花の最盛期にあたる6月には花しょうぶまつりが開催され、たくさんの人で賑わいます。


賀茂地区の風土と豊川霞堤

 今回のブログで取り上げている賀茂地区は、豊橋市の最北端に位置し、田園が広がる自然豊かな町です。昭和40年代以降の土地改良事業(耕地整理)が実施されるまでは、律令時代の条里制の遺構も残されていました。そして、農業を主な生業としてきた賀茂地区にとって、地区の西側境界を南北に流れる豊川の水利はとても重要な要素でありました。

 こちらも少し前のブログ(洪水に備える<『かがやく豊橋』④>)で取り上げましたが、一級河川・豊川は、流域内の降水量は上流部で多く、下流部で少ないという傾向があり、河道の勾配も急なことから、上流で降った大量の雨が一気に下流の平地に流れるという特徴を有しています。また、中下流部で川が大きく蛇行していることもあいまって、豊川流域は歴史的に度々洪水に見舞われてきました。

 こうした背景から、豊川中下流部では江戸時代より「霞堤」と呼ばれる不連続堤を設け、洪水を霞地区内に遊水させることで、吉田(今の豊橋)の城下町を洪水から守ってきた・・・という歴史があります。

 賀茂地区はまさに豊川中下流部で川が大きく蛇行している場所にあり、現在でも霞堤が残されている地区の一つです。


 豊橋市政施行100周年記念校 校区のあゆみ 賀茂|豊橋自治連合会

 ※資料の8~9頁に、「豊川と霞堤」に関する記述(過去の洪水被害など)があります。


 霞堤地区防災情報ポータル|豊橋河川事務所


 豊川|国土交通省


 豊川|豊橋河川事務所


令和5年6月台風2号豪雨災害

今年(2023年)6月2日から3日にかけて東海3県を襲った記録的な豪雨では、東三河地域で2度の線状降水帯が発生、4箇所の霞堤地区(金沢、賀茂、下条、牛川)をはじめ豊川流域は内水・外水で広範囲に浸水し、大きな被害を受けました。

 地元紙・東日新聞の6月16日付コラム(風針)は、豊川の「霞堤」をめぐる今日的課題を次のように伝えています。


 豊橋市・豊川市では、災害発生直後から様々な被災者支援事業を実施しています。


 大雨の被害を受けた方へ|豊橋市


 令和5年6月2日大雨により被害を受けた皆さまへ|豊川市



賀茂霞の浸水状況


(今回の舞台)



(2023年07月02日)




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