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三遠南信地域を結ぶ「飯田線」<穂の国「東三河」⑦>

★通勤・通学や観光路線として活躍しているJR飯田線は、近い将来、飯田駅でリニア中央新幹線と接続し、これまで以上に大きな役割を果たすことが期待されています。


豊川鉄道から始まる飯田線の歴史

 官設の東海道本線が開通して概ね10年後、東三河地域に民設の新たな鉄道路線が敷設されました。それが、後に飯田線の起点区間を構成することとなる「豊川鉄道」です。

 豊川鉄道は、豊川稲荷への参詣客や、豊川流域の旅客・貨物輸送のために設立された鉄道で、1897年(明治30年)から1900年(明治33年)にかけて、吉田駅(現・豊橋駅)~長篠駅(現・大海駅)までの区間が全線開通しました。

 この後、しばらく時間はかかりましたが、「鳳来寺鉄道」が山間部の資源開拓や鳳来寺参詣客輸送を目的として、1923年(大正12年)に長篠駅(現・大海駅)~三河川合駅までの路線を敷設します。と同時に、豊川鉄道と接続して、吉田駅からの直通運転が行われました。

 一方、この時代には、長野県側でも現在の飯田線の前身となる鉄道路線が敷設されていました。「伊那電気鉄道」がそれで、1909年(明治42年)から1927年(昭和2年)にかけて、辰野駅~天龍峡駅までの区間が全線開通していました。

 こうした状況下にあって、残る区間(鳳来寺鉄道三河川合駅~伊那電気鉄道天竜峡駅に至る路線)を建設し、吉田駅(現・豊橋駅)~辰野駅までを一本化する目的で設立されたのが「三信鉄道」です。急峻な地形のため難工事の連続であったようですが、1932年(昭和7年)から1937年(昭和12年)にかけて、三河川合駅から天竜峡駅までの区間が全線開通しました。

 こうした経緯を経て、現在のJR飯田線を構成する全ての路線が開通しました。豊川鉄道の最初の区間(吉田駅~豊川駅間)が開通してから40年後のことです。その後、豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道の民鉄4社は、太平洋戦争下の1943年(昭和18年)に戦時輸送体制強化の国策により政府に買収され、国有鉄道の「飯田線」が誕生することになります。


三遠南信地域を一つに結ぶ唯一の公共交通機関

 JR飯田線は、三遠南信地域を一つに結ぶ唯一の公共交通機関で、愛知県豊橋市「豊橋駅」から長野県上伊那郡辰野町「辰野駅」までの総延長は約200km(195.7km)、起終点の駅を含め94の駅で構成されています。

 東三河地域にとって、JR飯田線は豊橋・豊川方面への通勤・通学の主要交通手段であり、奥三河・信州方面への観光路線でもあります。また、秘境駅の存在や見応えのある車窓風景を背景として、JR飯田線は全国の鉄道ファンや旅行者からの根強い人気を獲得しており、かつては(昭和時代の終わり頃までは)様々な国鉄旧形電車が走る鉄道ファン羨望の路線でもあったようです。

 そして、このローカル線は、現在、起点の豊橋駅で東海道新幹線と接続していますが、近い将来には、終点の飯田駅でリニア中央新幹線との接続も予定されており、三遠南信地域の発展に資する基幹交通インフラとして、これまで以上に大きな役割を果たすことが期待されています。


 第2次三遠南信地域連携ビジョン|三遠南信地域連携ビジョン推進会議(SENA)


『飯田線ものがたり』・『飯田線(1960~90年代の思い出アルバム)』


JR飯田線


JR飯田線に乗って、東三河を南から北へ

 豊橋駅から東栄駅まで、東三河地域のJR飯田線沿線には、魅力ある寺社・史跡や施設が沢山あります。途中下車して、幾つかの駅周辺を散策してみました。


 「飯田線に乗ろう」の取り組み/三遠南信地域研究|東三河地域研究センター


 JR飯田線南信州各駅停車の旅|長野県


路面電車と公会堂(豊橋駅/豊橋市)


吉田城趾・鉄櫓(豊橋駅/豊橋市)


豊川稲荷(豊川駅/豊川市)


砥鹿神社(三河一宮駅/豊川市)


長篠の戦い決戦場跡(三河東郷駅/新城市)


設楽原決戦場・馬防柵(三河東郷駅/新城市)


宇連ダムと鳳来湖(三河川合駅/新城市)


大島ダムと朝霧湖(三河川合駅/新城市)


JR東栄駅舎(愛知県北設楽郡東栄町)

※東栄駅舎は、奥三河の伝統祭事「花祭」に由来する鬼の面がモチーフになっています。


 花祭|東栄町


東栄町観光案内(東栄駅/愛知県北設楽郡東栄町)


飯田線と佐久間ダム

 東栄駅を過ぎると、JR飯田線は静岡県浜松市域に入っていきます。一級河川・天竜川の支流である大千瀬川及び天竜川本川に沿って、出馬駅、上市場駅、浦川駅、早瀬駅、下川合駅、中部天竜駅、佐久間駅と、列車は順調に北上して行くのですが、佐久間駅を越えたところで、突然と言っていい程に、列車の進む方向が急に東側に振れて(長大トンネルを経由して)、一般国道152号沿いに変わります。その後、相月駅、城西駅、向市場駅、水窪駅と国道152号沿いに走った列車はまた急に方向を変え、今度は西側に大きく振れて(再び長大トンネルを経由して)、天竜川に沿ったルートに戻ります。明らかに不自然な鉄道路線(ルート)になっています。

 これは、飯田線が敷設された後に、新たに「佐久間ダム」の建設が行われ、これに伴い、路線変更が行われたからです。1955年(昭和30年)11月に路線変更が行われ、ダムによって水没する区間(佐久間駅~大嵐駅間の約18km)に位置していた天竜川沿いの豊根口駅、天龍山室駅、白神駅の3駅が廃止になるとともに、新たに相月駅、城西駅、向市場駅、水窪駅の4駅が開業しました。

 さて、佐久間ダムですが、静岡県浜松市と愛知県北設楽郡豊根村にまたがる一級河川・天竜川中流部に建設されたこのダムは、高さ155.5mの重力式コンクリートダムで、1956年(昭和31年)に竣工、現在は電源開発 (J-POWER) が管理しています。

 佐久間ダムは、わが国屈指の巨大ダムであり、水力発電を主目的としつつ、副次的に豊川用水(慢性的な水不足に悩む豊川下流域などへの農地灌漑、上水道・工業用水道供給を行う)の水源にもなっているほか、2004年(平成16年)より洪水調節目的を付加して多目的ダムとするダム再開発事業が国土交通省によって進められています。

 そして、この佐久間ダムを語るのに忘れてはならないのが、着工からわずか3年で巨大ダムを竣工させたという当時の技術力であり、チャレンジ精神。それまで経験したことの無かった「国際入札」にチャレンジすることで、ドリルジャンボや大型ダンプカー、ブルドーザー、油圧ショベルといった当時最先端の大型重機をアメリカから導入し、日本初の本格的大型機械化施工を実現しました(わが国の大型土木構造物の近代的機械化工法は、これ以降急速に普及しました)。まさに、高度経済成長を牽引する象徴的プロジェクトとして、佐久間ダムは建設されたのでした。


 佐久間ダム(元)/ダム便覧|日本ダム協会


 佐久間ダム(新)/ダム便覧|日本ダム協会


 佐久間ダム(静岡県) /ダムカード配布案内|J-POWER


中部天竜駅周辺の風景(浜松市天竜区佐久間町)


佐久間ダムと佐久間湖(中部天竜駅/浜松市・愛知県豊根村)

※ダム建設中の殉職者は96名にのぼります。その対応から、佐久間ダムは工事現場における安全管理対策の先鞭ともなりました。


(今回の舞台)



(2023年05月14日)

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