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熊本四街道をゆく

★熊本四街道(豊前街道、豊後街道、日向往還、薩摩街道)は、沿線の往還と一体となって、郷土・肥後熊本の政治・経済・軍事・文化活動を支えてきた。これらの街道・往還の歴史的価値・文化的価値を後世に語り継いでくれている「熊本四街道連絡協議会」の活動に感謝したい。

【熊本四街道連絡協議会シンポジウム】  熊本県内には、戦国末期から江戸時代を通して、人流・物流の大動脈として機能した四つの街道(豊前街道、豊後街道、日向往還、薩摩街道)がある。そして、これら熊本四街道は、沿線の往還(三池往還、南郷往還、九州脊梁往還、御所往還、小国往還、高瀬往還、本戸往還など)と一体となって、郷土の政治・経済・軍事・文化活動を支えてきた。  こうした肥後熊本の街道・往還に関心を寄せる人々が平成20年から「熊本四街道連絡協議会」を組織し、熊本四街道や沿線往還の学術研究はもとより、これらの街道・往還の歴史的価値・文化的価値を後世に語り継ぐ活動を展開してくれている。  本日(平成29年)11月5日、熊本城下の桜の馬場・城彩苑で、協議会主催の通算8回目の大会「熊本地震復興祈念シンポジウム」が開催された。各街道をフィールドとして日頃から活躍されている先輩方の話に感心させられるとともに、歴史が刻まれた街道・往還(交通インフラ)の価値や、郷土への働きかけの歴史が、民間ベースで伝承されていることに、感謝せざるを得なかった。小職も、『二重峠と熊本地震』というタイトルで、関連する資料説明をさせていただいた。

 くまもと四街道をめぐる(熊本県菊池地域振興局HP)↓ http://kumanago.jp/contents/yonkaido/index.html

(熊本地震復興祈念シンポジウム冊子)

(熊本地震復興祈念シンポジウムの様子)

(熊本四街道の起点「札の辻・里程元標跡」)

【豊後街道をゆく】  肥後熊本藩(加藤家)は五十四万石の大藩で、その領地の大部分は肥後国にあったが、豊後(大分県)の久住から鶴崎(大分市内)の港まで細長い地域に二万三千石を領していた。日本海・東シナ海側から太平洋側まで連なる全国でも例のない領地を有していたのである。  このような飛び地を確保したのは、豊臣家の忠臣・加藤清正公が有事に大阪方面へ駆けつけるためと伝えられている。この熊本~鶴崎を結ぶ街道が「豊後街道」で、清正公が拓き、政治、経済、軍事の重要なルートとして整備された。  豊後街道は、札の辻(熊本市)を起点として、菊地郡大津町、阿蘇市の二重峠を越え、内牧を経て大分の久住、豊後鶴崎に至る全長約124km(31里)の街道で、途中、二重峠、滝室坂、大利・境の松の山越えと難所が幾つもあったが、清正公はこの街道の整備に力を注ぎ、特に城下から大津までは幅二十間の一大杉並木街道を造り上げ、厳しいお触れを出して樹木を保護した。この大津街道は熊本城や大河川工事と共に清正公の構想の雄大さを今日に伝えるものとなっている。  江戸時代になると、この街道は細川藩が参勤交代路として活用。そのため、二年に一度は大名行列が通ることになり、各地に宿場が誕生した。

 くまもと四街道をめぐる・豊後街道(熊本県菊池地域振興局HP)↓ http://kumanago.jp/contents/yonkaido/map_bungo_index.html

 「二重峠(標高683m)」は大津町から阿蘇市に向かう途中の阿蘇北外輪を越える峠。北外輪山の西側の最も低い地点で、名の由来は阿蘇神話、健磐龍命(たけいわたつのみこと)が外輪山を蹴破ろうとしても、二重になっているから破れなかったという話からきている。

(豊後街道・二重峠2017.10)

(石畳の街道を下る2017.10)

 「滝室坂」は、豊後街道の最大の難所で、阿蘇谷の東端、一の宮町坂梨から東外輪山にいたる標高差約200m、距離にして約3キロメートルの急坂である。ふもとには旧宿場町の坂梨がある。  江戸時代後期の旅行家(地理学者)・古川古松軒の『西遊雑記』によると、「古人の方言に、大阪に坂なし、坂梨に坂有りとて、豊後より坂梨へ入るに片坂にて嶮(険)祖の下り坂一里半、豊後の西は肥後の国より小高き土地といふ」とあり、滝室坂は険しく容易に登ることができないものであった。  現在、豊後街道の滝室坂ルートは、H24年7月の九州北部豪雨等で被災し、通行不能の状態となっている。

 街道歩きの旅・豊後街道(波野~滝室坂~宮地)↓ http://kaidoaruki.com/area_kyusyu/bungo/bungo02.html

豊後街道 宿場町 坂梨(肥後国くまもとの歴史)↓ http://yumeko2.otemo-yan.net/e326204.html

(豊後街道・坂梨宿の町並み2017.10)

(豊後街道・滝室坂入口の石畳2016.11)

【豊前街道をゆく】 熊本を起点として北上。植木、鹿央、山鹿、和水から南関を経て豊前・小倉に至る道のことを熊本では「豊前街道」という。江戸時代、参勤交代道として栄え、大名行列の休憩処が設けられるなど、街道沿いの町は賑わいをみせた。

 くまもと四街道をめぐる「豊前街道」(熊本県菊池地域振興局)↓ http://kumanago.jp/contents/yonkaido/map_buzen_index.html

 歴史回廊ロマン・豊前街道散策マップ(熊本県鹿本地域振興局)↓ http://www.pref.kumamoto.jp/kenhoku/kiji_7313.html

(豊前街道・腹切坂2017.6)

 このうち、昔から湯のまちであった山鹿は宿場町、文化の中心として栄え、重厚な貫禄が町並みに残されている。また、大宮神社の例祭「燈籠祭」は、室町時代より約600年続く、熊本県を代表する祭りで、毎年、多くの参拝客・観光客で賑わう。

(豊前街道の町並み:山鹿市2017.6)

(山鹿燈籠祭「千人灯籠踊り」2017.8)

 南関町は、熊本県の北西端に位置する。古代の官道や豊前街道が通り、官道の駅「大水駅」や国境警備のための関所・番所、豊前街道の肥後国内における最終の休憩・宿泊地が設けられるなど、昔から交通の要衝として発展してきた。現在も、国道443号だけでなく、九州自動車道が此の地を通過し、南関インターチェンジが設けられている。

(南関御茶屋跡2017.6)

【日向往還をゆく】 「日向往還」は、肥後国(熊本県)と日向国(宮崎県)を結ぶ旧藩時代の歴史街道。豊前・豊後・薩摩の3街道は、旧藩主の参勤交代に使用されたいわば公の道であったが、日向往還は市井の人々の生活物資を運ぶ民の道として栄えた。  日向往還は、熊本城下(札の辻→長六橋)から、嘉島、御船、山都(浜町、清和、馬見原)を経て、宮崎県の五ヶ瀬・高千穂・延岡に至る延長約34里(約136km)の行程。地形的には、熊本市から御船町まではほぼ平坦、それより先は九州山地を西から東へ横断する形で、御船町から国道445号沿いに(緑川の北、約5~6km付近の台地上を並走して)山都町まで、そして山都町から国道218号沿いに(五ヶ瀬川沿いに下って)延岡市まで続く。  日向往還が通る地域一帯は、阿蘇南外輪山の頂上付近を源とする緑川支流となる河川によって形成された比較的開発に適した平坦地が多くみられ、近世以降の国土への働きかけの成果(元禄・嘉永井手、通潤橋など)が幾つも遺されている。また、肥後の石橋文化(八勢目鑑橋、通潤橋、霊台橋など)が花開いたのもこの地域。日向往還としての本格的整備は近世以降になってからであるが、高千穂系統の神楽の分布、宮崎地方の方言の利用頻度などは、古くから肥後と日向方面との地域間交流が盛んであったことを示している。

 くまもと四街道をめぐる・日向往還(熊本県菊池地域振興局HP)↓ http://kumanago.jp/contents/yonkaido/map_hyuga_index.html

 日向往還の~んびりマップ【熊本市から山都町浜町】(熊本県HP)↓ http://www.pref.kumamoto.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=7219&sub_id=1&flid=3&dan_id=1

 日向往還の~んびりマップ【山都町浜町から馬見原】(熊本県HP)↓ http://www.pref.kumamoto.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=7219&sub_id=1&flid=4&dan_id=1

(日向往還・八勢の石畳2017.1)

(日向往還・馬見原の町並み2017.1)

【薩摩街道をゆく】  「薩摩街道」は、豊前街道、豊後街道、日向往還とならび肥後熊本を代表する街道で、熊本市の札の辻(新町一丁目)を出発点とし、白川(長六橋)を下り、川尻、宇土、八代、日奈久、赤松太郎峠、田浦、佐敷、津奈木、水俣を経て薩摩に至る道である。江戸時代には薩摩藩・人吉藩の参勤交代の道として重要な役割を果たした。

 くまもと四街道をめぐる・薩摩街道(熊本県菊池地域振興局HP)↓ http://kumanago.jp/contents/yonkaido/map_satsuma_index.html

 「長六橋」は白川に架けられた最初の橋で、橋を架けたのは加藤清正公。清正公は白川を熊本城の外堀に見立て、この橋を唯一の交通路とした。長六橋が最初に架けられたのは慶長6年(1601)で、その「(慶)長六(年)」をそのまま橋の名にしたのではないかと言われている。  関ヶ原の戦い後、天下は徳川氏の武力の下に統一されていたとはいえ、なお戦国時代の猛将達が残存し、何時如何なる機会を狙って猛然と決起してこないとも限らない状況であった。とりわけ、肥後の南方(薩摩)には島津氏が虎視眈々と控えており、清正公はこの南方の敵に対し、防御の砦として球磨川、緑川、加勢川等の大河川を活用した。そして、最後に白川をもって熊本城下直南の防備地帯とするために、その南岸にはいっさい市街を展開せず、ただ一つこの長六橋をもって行き来を行なわせたのである。

(現在の国道3号・長六橋2017.1)

 一方、日奈久~田浦~佐敷~津奈木~水俣までの道は急峻な地形を克服せねばならず、特に、赤松太郎・佐敷太郎・津奈木太郎のいわゆる三太郎峠は交通の難所であった。  江戸時代の薩摩街道は、現在も約1間(約2m)ほどの細い道筋や切通し、石畳等が残っているが、一部区間(?)は、道なき道を進まなければならない。

薩摩街道 三太郎峠「廃道をゆく2」への道/佐敷太郎峠↓ http://tecroad.web.fc2.com/santarou07.html

 昨日(平成29年)11月4日、熊本県芦北地域振興局主催の「平成29年度 薩摩街道歴史ふれあいウォークin 水俣・芦北」が開催された。このウォーキング・イベントは、平成25年度に第1回が開催されて以降、毎年開催されており、今年は「つなぎ温泉『四季彩』→歌坂→新水俣駅→シラス坂→陣の坂→エコパーク水俣」という約12kmのコースが対象。  当日は天気にも恵まれ、豊臣秀吉、西郷隆盛などの偉人たちが残した足跡をたどりながら、薩摩街道の変遷(薩摩街道には、大型車を含めた交通量の非常に多い「国道3号」重複区間、平坦な県道や市道と重複する区間、そして古の街道の面影をほぼそのまま残すの山道の区間がある)や、更なる交通インフラの発展(街道の横を九州新幹線が走り、また南九州西回り自動車道の建設が進んでいる)に思いを馳せた。

 薩摩街道歴史ふれあいウォーク↓ http://www.nanaurameguri.com/satsumakaidou/

(薩摩街道歴史ふれあいウォークの様子2017.11)

(薩摩街道・歌坂2017.11)

※天正15年5月、豊臣秀吉が島津征伐に来たとき、相良氏の家臣深水宗方が秀吉のご機嫌伺いに、「草も木もなびき従う五月雨に君がめぐみは高麗百済まで」と歌を献上した。秀吉はこの歌を大変気に入り、褒めたので、この坂を歌坂というようになったという。

(薩摩街道・陣の坂2017.11)

※天正年間に島津軍が水俣城を攻めた折の記録に、「湯出川を前にして陣を敷いた」と記されていたことから、本陣の背後にあった坂道の意で「陣の坂」と呼ぶようになったと言われている。旅人泣かせの難所であったらしく、西南戦争の折、北上する西郷軍が大砲の搬送に苦労したという話もある。

(今回の舞台)

(2017年11月05日)

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