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渡鹿堰と大井手の物語

★「渡鹿堰と大井手」は、加藤清正公による国土づくりの功績の一つ。取水口近くには、水分神(堰の守護神)と管原道真公を主祭神とする水分神社・菅原神社が鎮座する。ここでも、インフラと神話との間には、きわめて親和性の高い関係が見受けられる。

【白川激甚災害対策特別緊急事業】  昨年7月に「九州北部豪雨災害」が発生し、福岡県朝倉市をはじめとして、東峰村、大分県日田市が甚大な被災に見舞われたことは記憶に新しいところであるが、ここ熊本県内では5年前に発生した平成24年「九州北部豪雨災害」からの復旧事業が継続中である。  平成24年7月11日から14日にかけて、本州付近に停滞した梅雨前線に向かって南から非常に湿った空気が流れ込み、九州北部を中心に非常に強い大雨となった。熊本県内では、白川流域の坊中雨量観測所で観測史上第1位となる時間雨量124mmを記録するとともに、白川の水位についても、基準地点代継橋において昭和31年の観測開始以来、観測史上第1位となる水位を観測した。そして、白川本川が熊本市街部で越水し、支川黒川が広範囲に氾濫する洪水となり、沿川で多数の家屋浸水を発生させた(白川沿川の被害は、家屋の全半壊183戸、床上浸水2,011戸、床下浸水789戸)。  この平成24年九州北部豪雨災害に対し、「白川激甚災害対策特別緊急事業」が同年11月に採択され、このうち国土交通省直轄事業区間(明午橋~小磧橋間の約3.5km)では、現在、河道掘削、築堤・護岸、樋管、橋架替等の工事が最終段階を迎えている。今回のブログで取り上げた「渡鹿堰」がある地区もこれに含まれている。

 白川について(熊本河川国道事務所)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/kumamoto/site_files/file/office/H29kawadukuri.pdf

(白川激甚災害対策特別緊急事業の様子:渡鹿地区)

【清正公時代に築造され、今もなお利用されているインフラ】  「渡鹿堰」は、肥後熊本藩初代藩主・加藤清正公による国土づくりの功績の一つ。阿蘇を水源とする白川は熊本市街地に入ると、渡鹿地区で大きく湾曲する流れとなっており、ひとたひ、洪水となれば、ここから水流が一気に熊本城下を襲いかねない。そこで、清正公は大きな石造堰を築いて治水を図るとともに、平時は水を溜めて灌漑用水とすることとした。工事の時期は慶長11~13年(1606~160年)頃と伝えられている。これが白川水系最大規模の灌漑用水施設となった「渡鹿堰と大井手」の起源である。  現在のコンクリート堰は昭和28年の大水害後に改修されたものであるが、取水口から大井手に導いて順次、ーの井手、二の井手、三の井手と分水する方式は清正以来である。ーの井手は出水・画図方面、二の井手は春竹・田迎・御幸方面、三の井手は世安・十禅寺・平田・近見方面を潤す。清正公創設時の灌漑面積は約1,083町にも及んだといわれ、それは今もなお利用され、堰、井手とも渡鹿堰水利組合によって管理されている。  さらに近年は、「まちづくり」の観点から、大井手の水辺空間としての機能が見直されており、地元行政組織(熊本市中央区)や地域のNPO団体等による活動も活発である。

 渡鹿堰付近(熊本河川国道事務所)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/kumamoto/river/shirakawa/02/kouku_s_img/s_18.html

 中央区まちづくり事業「井手を活かしたまちづくり」(熊本市)↓ https://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=5423&sub_id=4&flid=44576

 熊本市大井手における里川景観形成に関する研究/熊本大学(JSCE)↓ http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00039/200806_no37/pdf/290.pdf

(渡鹿堰)

(渡鹿堰取水口:工事中)

(大井手開水路)

(一の井手取水口)

(ヤナギ並木のある区間)

(大井手沿緑地)

(大井手橋)

(白川本川と合流:九品寺樋門)

【水分神社・菅原神社と早鷹天神の物語】  白川左岸「渡鹿堰と大井手(取水口)」近くに鎮座する水分神社・菅原神社は、水分神(堰の守護神)と管原道真公を主祭神とする由緒ある神社で、当神社では毎年1月11日に「水源祭」が開催されている。 此の地に限らず、インフラと神話との間には、きわめて親和性の高い関係が見受けられる。これは、インフラ整備の効果(安全で快適な生活の実現など)が、「先人たちの国土(郷土)への働きかけによって、国土(郷土)から恵みを返してもらってきた歴史の賜物である」からであり、インフラが極めて高い公益性を有していることの査証である。

<水分神社・菅原神社の由緒>  「往古は 早鷹神の森(現在渡鹿5丁目)として 古代人の信仰の寄り所であり 集いの場所であった。  さて 延喜3年(903年) 管原道真公が没せられたので 神の森は早鷹天神となった。 ついで 天正16年(1588年)に 熊本城主加藤清正公が 白川から田迎 出仲間方面への田畑の水路(一、二、三の井手)をうるおす為に渡鹿堰を完成された。 清正公は大喜悦され 堰の守護神(水分神)と 早鷹天神の分神(管原道真公)を尊崇するようにと現在地に神社を創建された。 この渡鹿堰の水路で 三千町歩の田畑から 見事な肥後米が生産された。  然し 時代の推移と共に 御社殿が破損し 宝永8年(1711年)享和2年(1802年)と他 数回にわたり 本庄 田迎 長溝 大江方面の水利関係者の寄付と奉仕により 修理された。  さて 近年になり 破損が甚だしいので 再建の運びとなった。今日に至る迄に 実に 1080年以上の歴史が刻まれている。」(境内・由緒書より)

<早鷹天神と渡鹿堰>  「昔、渡鹿の池は井島山に城を構えていた豪族、井島玄蕃に支配されておりました。そのころ、茶臼山に熊本城を完成させた加藤清正は江津塘を築いたものの、肝心な水をどこから引けば良いか心を痛めておりました。  そこで、渡鹿の豪族、井島玄蕃に「白川からの取水口の位置を決めるのに手を尽くしたがなかなかうまくいかぬ。どうか貴殿の知恵を拝借したい」と頼みました。  玄蕃は思案の末、渡鹿の鎮護の神であった早鷹天神に願いをかけ、30日間こもりました。そして、いよいよ満願の日のことです。どこからともなく白髪の老人が現れ「玄蕃よ、その方の一途な願いに免じて、この夜明けに白羽の鷹を使いとしてよこす。その鷹が止まった所を掘れば、必ずやうまくいくだろう」と言うと、たちまち姿を消しました。  予言どおり東の空が白むころ、勇ましい羽音と共に一羽の白鷹が舞いおり、白川の左岸に白い羽一枚を落として遥かかなたに飛び去りました。玄蕃はたいそう喜び、さっそくこのことを清正に報告しました。清正は直ちに家来と数百人の人夫を連れてそこを掘りました。  するとどうでしょう、みずがとうとうと矢のように流れ出たではありませんか。こうしてこの渡鹿堰を起点に大井手ができ、さらに1の井手、2の井手、3の井手と用水路が築かれ、天下に誇る肥後米の収穫を見ることができたのです。」(熊本市ホームページより)

 早鷹天神と渡鹿堰(熊本市)↓ http://www.city.kumamoto.jp/html/kids/minwa/5.html

(水分神社・菅原神社)

(由緒書)

(早鷹神社)

(今回の舞台)

(2018年1月14日)

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