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多機能インフラの先駆け「土浦線の建設」

★城下町・土浦を水害から守るため、鉄道線路の盛土を湖岸堤の代わりとして造らせた明治の代議士・色川三郎兵衛の伝記は、今も茨城県民(土浦市民)の間で語り継がれています。


東日本大震災と命の道

 東日本大震災から11年が経ちました。この東日本大震災では、「道路」が本来の交通インフラとしての機能を超えて、防災インフラとして重要な役割を果たしました。

 仙台市を含む宮城県の中南部は平地のため、海岸から4km内陸側まで津波が達しましたが、仙台市の東部を北から南に走る「仙台東部道路」の盛土構造(高さ7〜10m)が防潮堤の役割を果たし、市街地への津波や瓦礫の流入を抑制しました。同様に、福島県相馬市の国道6号「相馬バイパス」も、盛土区間が防潮堤の機能を果たし、津波の浸水を防いでいます。

また、大槌湾からの津波により被災した鵜住居小学校・釜石東中学校(岩手県釜石市)の生徒ら約560人は、高台にある三陸縦貫道「釜石山田道路」に逃れ、全員が助かりました。しかも、その道路を使って旧釜石第一中学校の体育館(避難所)まで避難することもできました。同様に、岩手県の小本小学校も津波により冠水しましたが、児童ら88人は学校から高台の国道45号に続く避難階段を登り、間一髪で難を逃れることができました。この階段は、震災2年前の2009年(平成21年)に設置されたばかりで、まさに「命の道」となりました。


 住民を守り、支えたインフラ(東日本大震災メモリアル)↓


 命の道・避難階段(東日本大震災メモリアル)↓


多機能インフラとは

 私たちの生活を支えているインフラには、それぞれ果たすべき機能・役割があります。例えば、交通インフラである道路、鉄道、空港、港湾は、いずれも人や物の移動を支える社会基盤です。道路や鉄道は日々の通勤や通学に欠かせません。都心の主要な道路や鉄道は、日々、大量の人流を支えています。一方、空港や港湾は国内だけでなく、国外の人流・物流に関与する重要な交通インフラです。

 これに対し、防災インフラとは、地震、津波、台風、火山噴火等の自然災害に備えるための社会基盤を指します。河川堤防、ダム、遊水池などのハード対策のほか、災害情報やハザードマップ、避難や安否情報の受発信システムなどのソフト対策もこれに含まれます。

 とは言うものの、インフラの機能・役割は、いつも必ず1つでなければならないと言う訳ではありません。前出の「命の道」のように、「道路」が交通インフラの機能を超えて、防災インフラとして重要な役割を果たすこともあります。

 近年の情勢の変化(災害の激甚化への対応、既存の市街地等への影響、地下空間利用の広がりなど)を踏まえた場合、これからのインフラ整備・活用にあたっては、道路、河川、まちづくり等の複合的な観点を早期から取り込んで、より効率的に進めていくことが重要です。また、こうした多機能インフラを整備・活用することによって、相乗的な効果や新たな価値の創造も期待されます。

 整備済または今後整備予定の代表的な多機能インフラプロジェクトとしては、

・東京外環と綾瀬川放水路の一体整備、

・二線堤機能を持つバイパスの整備(宮城県大崎市)、

・サイクリングルートとして活用している防潮堤(福島県いわき市)、

・阪神高速大和川線(高規格堤防+自専道整備+土地区画整理)、

・淀川左岸線(2期)(自専道整備+高規格堤防整備)、

などをあげることができます。


 多機能インフラプロジェクトについて(国土交通省)↓


 多機能インフラプロジェクト事例について(国土交通省)↓


鉄道線路の盛土を湖岸堤の代わりとして造らせた明治の代議士・色川三郎兵衛

 江戸時代に城下町として栄えた土浦は、桜川が霞ヶ浦に注ぎ込む河口の低地につくられた町で、町の中には中小の河川や数多くの水路や濠がありました。このため、水運によって江戸の経済と結びつき、商業の中心地として発展してきましたが、その一方で、霞ヶ浦からの逆水(バックウォーター)による洪水にも見舞われてきました。

 土浦の醤油醸造家であり、地元選出の代議士である色川三郎兵衛(1842-1905)は、在任中、鉄道会社に働きかけて日本鉄道土浦線(海岸線とも呼ばれる。現・JR東日本常磐線)の敷設計画を変更させ、当時水害に悩まされていた土浦市の霞ヶ浦側に、鉄道線路の盛土を湖岸堤の代わりとして造らせたほか、逆水防止のための機械開閉式閘門(川口川閘門、田町川閘門)の建設に出資するなど、土浦の水害対策に尽力しました。

 川口川閘門、田町川閘門は彼が亡くなって1年後の1906年(明治39年)に完成しました。また、1938年(昭和13年)には、市内に流れ込んだ水を霞ヶ浦へ排水する揚水ポンプも設置されたことから、これ以降、土浦では大きな水害は減少することとなりました。

 その後、生活や輸送の変化に伴い次第に川や水路の埋め立てが進み、閘門はその使命を終えました。現在、川口川閘門の跡は、土浦駅を東西につなぐトンネル状の道路へと姿を変えています。


 わがまちが生んだ偉人・色川三郎兵衛(冨山章一/筑波経済月報)↓


 川口川閘門、稼働中!(水路を水路をゆく・第二運河)↓


 川口川閘門の鉄扉と揚水ポンプ(土浦探訪)↓


 第40回 子ども郷土研究最優秀作品(広報つちうら2017.2.1)↓


茨城県の小学校社会科副教材「川口川閘門をつくった色川三郎兵衛」

 この色川三郎兵衛の伝記は、茨城県の小学校社会科の郷土学習の素材として、長年用いられてきました。例えば、1992年(平成4年)発行の小学校4・5・6年社会科副読本『新版 わたしたちの茨城県』(著作:茨城県教育研究会社会科教育研究部、発行:ひばり出版)では、「川口川閘門をつくった色川三郎兵衛」というタイトルで、土浦の水害対策に尽力した色川三郎兵衛の伝記がわかりやすく紹介されています。


①江戸時代、土浦は大雨がふると、霞ヶ浦(かすみがうら)の水がぎゃく流し、桜川などの水があふれました。そのため、水害におそわれることが何度もあり、人びとは不安な生活をしていました。

②色川三郎兵衛(いろかわさぶろべい)は、土浦に鉄道が通るのを知り、それがていぼうの役目にもなるように考えました。そこで、三郎兵衛は霞ヶ浦に近い沼地(ぬまち)に線路を変えるようにていあんしました。

③しかし、沼地の工事もむずかしく、町民(ちょうみん)からも反対されました。それは、駅の場所がふべんなことと、水運でさかえた町民が河岸(かし)の出入りができず、生活にこまるためでした。

④それでも三郎兵衛は、「土浦の水害がなくならなければ町の発てんはのぞめない。」と考え、町民に熱心に説明(せつめい)しました。そのけっか、町はずれの沼地に鉄道が通ることになりました。

⑤ていぼうができても、大雨になると、今度は鉄道の下を流れる川口川があふれてしまいました。そこで、ぎゃく流をふせぐ閘門(船が通れる水門)が必要になったのです。

⑥閘門をつくるためには、たくさんのお金が必要でした。三郎兵衛は、自分の土地を売ったり、しょう油会社もうしなってしまうほどでしたが、閘門づくりに全力をつくしました。

⑦土浦の町を守るためにつくした三郎兵衛は、とうとう病気でたおれ、閘門の完成を見ずになくなってしまいました。それは、閘門ができあがる1年前のことでした。

⑧その後、三郎兵衛の力でできた閘門は、大雨がふっても土浦を水害から守りました。こうして土浦は、水害の心配がなくなり、ふべんだった駅の近くもいまでは大きく発展しています。


 城下町・土浦を水害から守るため、鉄道線路の盛土を湖岸堤の代わりとして造らせた明治の代議士・色川三郎兵衛の伝記は、今も茨城県民(土浦市民)の間で語り継がれています。


土浦城(亀城)(観光いばらきHPより)


明治16年当時の土浦市中心部(キャピタルトラストHPより)


土浦市の地盤と主要交通インフラ(ジオテックHPより)


土浦閘門排水の景其一・其二(ブログ「水路をゆく・第二運河」より)


川口川閘門 跡(土浦市)


川口川閘門の鉄扉と揚水ポンプ(土浦市)


色川三郎兵衛銅像(土浦市)


川口川閘門をつくった色川三郎兵衛(『新版 わたしたちの茨城県』より)


(今回の舞台)



(2022年3月19日)

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